After_Winter

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#01

「他の人の自転車ってさ、かなり乗りづらいよね」
「転ぶなよ」
ハンドルの切り加減がいまだ掴めずによろめいてばかりいた。サドルが高くて足は地面に届かないし、ブレーキだって若干効き過ぎな気がする。冬なのに汗かくし、後ろに乗ってるジュンは重いしで、もうイヤになってきた。それを見抜いてか、
「だからお前が後ろに乗れっつったんだよ」
なんて言われた。ちょっとだけ身体を動かしたかったから、二人乗りの運転役に立候補したのだけれど、そう言われちゃ代われないってもんでしょ。まあ、意地っ張りなのだ。よく指摘されるし、まあ自覚もないことはないんだけど。
「うるさい、黙って、どうカッコつければいいかでも考えてなよ」
そう言い返したのは売り言葉に買い言葉だけれど、適当に返した言葉じゃない。半分本心、半分当てつけ、いや2:8くらいの割合かな。
「ばっ――! なんで俺が――」
「ちょっ、暴れないで!」
大きくよろけて急ブレーキを踏む。後ろのバカに激突された。ええと、あれ、慣性ってやつだ。私がイイ足の持ち主だったら、ギア1で急加速すれば、上手い具合にバカだけ落として走り去れるだろうなぁ、なんて想像する。まあ、そんなことはどうでもよくて。
その要らない口を開かれる前に、この際ハッキリと言っておく。
「あんたね! あんたがレイちゃんのこと好きなの、バレッバレなんだからねっ!」
「はぁっ? だからなんで――」
「こっちが聞きたいよ! あんたのそのハッキリした態度、正直超ムカつくの。とにかく、それに気付いてないのはレイちゃん本人ぐらいで、もうクラス全員からはあんたの雪坂LOVE光線が丸見えなの! それでも違うって言うんだったら、今からでも他の奴に電話して、あんたの代わりに来てもらってもいいんだからね」
そこまで言うと、ジュンは言葉になっていない声を混乱したまま吐くだけになった。彼女を狙ってるライバルが大勢いるのは身に染みて分かっているから、ムキになって「ああ好きにしろ!」なんて言葉を吐ける余裕はないみたい。
「ほら、分かったらさっさとチャリを漕ぐ!」
「あ、ああ……」

私達は今、レイちゃんの家に向かっている。
レイちゃんの本名は雪坂怜、男の子とも取れる名前だけれど、女の子。そんな名前だからか知らないけれど、あまり女っ気を見せないし、女の子にもモテモテだし、しゃべり方も男みたいでよく間違えられたりする。まあ、成績は優秀だし(何を隠そう、特待生なのだ!)、容姿だっていい。知的で冷静、大人っぽくてスレンダーなんだ。運動神経だってかなりのもので、文武両道を地で行くんだけれど、忙しいらしくて部活には入ってない。人付き合いも悪くないし、料理も得意みたいで、弁当を自分で作ってくる数少ない子の一人だったりして、私なんかとは比じゃないくらいに完璧。
あ、胸が小さいくらいかな、マイナスポイントは。私より小さい。小さい。でもあんな脂肪の塊なんかあったところで何にも得しないわけだからね、むしろ洗練されているって言うべきだね。あったところで仕方がないって。あんなのに惹かれる男子どもなんかもうね、知るかって感じ。全くもう。ありえん。
でも、何でそのパーフェクトなレイちゃんの家に向かっているかっていうと、ここ二週間ほど全く学校に顔を出していないのだ。電話で欠席の連絡を入れてはいるのだけれど、風邪にしては長すぎるだろう、ということで、比較的仲が良い私が、担任に様子を見てこい、と駆りだされたわけだ。
仲が良い、といっても、実はレイちゃんについてはあんまり知らなかったりする。いや、性格は良い。何より真面目だし、気遣いもいい。モテるけれど、それを鼻に掛けるような真似はしない。付き合っていて気持ちがいいし、周りにいつも人がいるくらい人望もある。
でも、少し無口なのだ。私があんまり詮索しないってのもあるんだけれどね。いや、無口と言うより、無駄なことは喋らないっていうタイプ。私みたいにお喋りな子が多いもんだから、レイちゃんが喋らなくても誰かしら喋ってるわけで、それを割ってでも喋る気はしないんだろうね。ちょっと腰を引いた感じ? あんまり愚痴を言うキャラじゃないしね。でもちゃんと喋らなきゃいけない場では、いわゆる無口な子みたいに尻込みしたりしない感じ。
持ち前の頭の良さもあるから、この前の英語スピーチ大会じゃあ優勝候補の生徒会長を押さえて準優勝。ろくに英語も分からない奴、というか私でも上手いと分かるスピーチで、あれを見ると口が裂けても無口なんて言えない。よく、日頃喋る声は大きいけれど、発表するときは小動物みたいになっちゃう子の方が多いってのにさ。
そんなレイちゃんが優勝できなかったのは、決勝戦を棄権したからだった。
そう、学校を休み始めたのはそこら辺からだ。
決勝戦は数日延期されて、それでもレイちゃんは登校出来る状態じゃないみたいで、棄権扱いになったんだっけ。色々な理由が囁かれた。嫌がらせを受けたとか、毒を盛られたとか。一見無口っぽいから、本当は人前で喋るなんて耐えれなかったとか。まあ、人前に出るのはあまり好きじゃないみたいだから、あながち間違っちゃいないかもだけれど、やるからには本気でやる、って意気込んでいたから、やっぱりそれはない。
そういえば、レイちゃんの家に行くのは初めてだ。学校からは自転車で行ける距離ではあるけれど、駅からはかなりの距離だし、何よりレイちゃんが許してくれなかった。キッパリした物言いで拒むから、あんまり強く誘わなかったし。家の詳しい場所だって、今日担任に聞いたばっかり。担任にその事を言ったら、
「お前、あんな仲良さそうにしてるのに知らなかったのか?」
なんて言う。そんな私が冷たい奴みたいな言い方をされるのが気にくわないわけだけれど、まあ私も割と淡白な奴ですからね。いいですけどね。
「おい八千代、この信号で右だっけか?」
「違う。次の信号で右。で、次の信号で右に曲がって、もう一回右に曲がる」
「ああ、次の次の信号で右だな。コンビニのとこか」
ジュンは私を冷酷な奴扱いしたもう一人の野郎で、折角だから私の足を兼ねて連れてきた。一応私の幼なじみという縁があるから、少しだけレイちゃん争奪合戦の肩入れをしてやったわけだ。まあ、男子どもは揃いも揃って腑抜けばっかで、誰もレイちゃんには告白してないみたいだけど。
あそこまで出来る子だと、自分の告白が通るはずなんかない、なんて思っちゃうんだろうね。別に好きってわけじゃなさそうな子も、取り巻きが妨げになってるのもあると思うけど、あんまり積極的に話しかけたりもしないみたいだし。そういう意味では、レイちゃんは孤独、かもしれない。誰にも、そう教師からでさえ一目置かれているくらいだから。
あ、でも、女子にはよく告白されてるけどね。しっかしまあ、男なんて星の数いるのに、よくも女の子に告白するもんだと思う。いや、女も星の数いるわけだから、そりゃちょっと変わった奴だっているわけだけどさぁ。いくらレイちゃんが格好いいからって、ねぇ?

しばらくして。
「ここか?」
「みたい。団地の公共住宅って聞いたから」
何の変哲もないマンション群。猫がいっぱいたむろってる。
冷たそうな鉄筋コンクリートは、冬空みたいに灰色がかっていて、うっすらと走るヒビ割れは、きっと全く同じヒビの入り方なんてないんだろうけど、まるでありがちなマンションの象徴みたい。マンション憲法第一条、みたいな?
飽和気味の自転車置き場にはみ出たまま置いて、エレベータのボタンを押す。
言葉が少なくなったジュンは、階数の表示を眺めている。その数字が運命のカウントダウンみたいに見えるんだろうね。
「あんたさ、レイちゃんのどこが好きなの?」
「どこがって……」
妙に乾いた声を出しちゃって。青春ドラマか。
「美人だから? 黒髪は綺麗だし、肌は白いし。あと胸小さいし」
「それがない、とは言わないけど、つーか胸は関係ないけど……んー……」
カウントが『1』になって、ドアが開いた。クイズ番組だったらバツもらってたところだ。
「まあ、一言じゃあ言い表せないよね」
7階を押す。最上階の一つ下だ。
「お前も、何で雪坂と特別仲いいんだよ」
「何でって、別にそんなつもりじゃないけど。友好関係広いでしょ? 私」
「でも、よく二人だけで遊んでるじゃん。わざわざ他の奴らの誘い断って二人っきりにしてるの知ってんだぜ。お前ら共通の友達多いのにさ。賑やかに遊べばいいじゃん」
少し返答に遅れるだけで、エレベータの稼働音がその空白を占めるから、妙に空気が重たくなる。別にこれは慣性ってわけじゃない。物理現象で空気が重かったら、浮力が掛かって身体は軽くなるし、なんてね。
「割とね、女子っぽい派閥って嫌いなんだよね。ドロッドロだし。特にレイちゃんの周りはねぇ……。だから別に、レイちゃんだって超特別に仲いいってわけじゃないよ。……ま、ちょっとは特別かもしれないけど」
「お前って結構、野郎っぽいもんな」
「ぶん殴るよ?」
拳を振り上げる。
「ほら、そういうトコとか」
肩口に右フック。否定はしないけどさ。

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#02

八千代と俺がエレベータ前の廊下を抜けると、奥から二番目のドアに、
『雪坂』
の表札。
それが目に入っただけで、既に臨戦態勢だった心臓が、もう痙攣みたいな感じに動いてる。血液送りすぎ。体中暑すぎ。背中とか滅茶苦茶チクチクしてるしね。
深呼吸。初冬の冷めた空気。
鞄を左手に持ち替えて、インターフォンを押――
『ピンポーン』
「はいはい私が先に出るから」
って、俺の覚悟とか無視ですか。どれだけ緊張してると思ってるんすか。
でも、そのインターフォンに返事はなかった。マイク付きで、きっとドアを開けなくても会話出来るヤツっぽいんだけれど、それでもリアクションはない。
八千代がもう一回ボタンを押して、
「レイちゃーん」
と呼びかける。ついでにノック。
やっぱり返事はなくて、八千代はケータイに電話を入れてる。
勢いを削がれた俺は一人、七階からの風景に目をやるしかなかった。中々の眺め。学校が遠くに見えるし、いつも使っている電車の高架もある。見た感じ、学校の最寄り駅よりもその一つ手前の方がここから近そうだった。こう見ると、結構な距離だなぁ、って思う。よく通えるもんだ。
空は曇りがち。風もそこそこ出ていたから、手袋でもしてくれば良かった。チャリに乗ってるとポケットに手、入れらんないし。両手を合わせて隙間を作り、そこにため息めいた息を吹き込む。白い。
「ダメ、出ない」
八千代は当てつけるみたいにピンクい手袋をはめ直しながら、そう言って首を振る。
「寝てるのかな。どする? 帰る?」
「いや、また時間を置いてから来ようぜ。親とか帰ってくるかも知れないしさ。とりあえずさ、昼飯食わねぇ? 腹減った」
もう二時を回っている。朝から何も食ってないし、ちょうど良い時間潰しにもなるだろ。
「確かに。近くにサイゼあったよね? そこでいいよね」
また一階まで降りて、チャリは置いたままにファミレスへ。風と落ち葉が擦れる音だけが乾いた空気に浮かんでいた。この時間の住宅地じゃ、車の往来もない。ファミレスのある大通りに出ると、すぐに空しさも紛れるけれど。

土曜日で、店内はそこそこの賑わいを見せていた。
席に着いてすぐに、二人して一番安いドリアを頼む。金の無い学生らしいオーダー。ドリンクバーすら頼まない辺りに、貧乏根性座ってるなと思う。
二人分の水を取って戻ってくると、八千代がお子様のメニューを広げていた。見開きで間違い探しになっていて、しかも結構難しいものだから、案外真剣になってやってしまう。部活の連中と来たときもこれで盛り上がって、野郎どもが揃いも揃ってお子様のメニューをガン見している光景は、なかなか異様だろうな、って思った。
「もうこれ、やった?」
「やった」
「場所言わないでね。今三つだから」
持ってきた水にお礼も言わず(別に期待しちゃいないけど)、指線を一切こっちに向けようとしない。時折、「よし」とか呟いて、完全に一人の世界に入ってる。
それをぼーっと眺めていたら、千代子は独り言のように話を始める。
「レイちゃんはね、実はこういうの苦手なんだよね」
「雪坂が?」
「うん」
「別に興味ないだけじゃねぇの?」
「ううん、結構必死になってやってた。一緒に探しあったんだけどね、ほら、最後の一個って先に見つけた方はさ、場所をすぐに教えないじゃん。だからさ、私が先に見つけて、ちょっと優越感に浸る、っていうか、まあ本気で悦に入るわけじゃないんだけどさ、焦らしてたわけ」
「うん、それで?」
間違い探しをしている雪坂の姿を想像すると、やっぱり何か、違和感があった。
「でも、最後まで見つからなかったみたいだから、教えてあげた。二、三個ぐらいじゃなかったかな、レイちゃんが先に見つけたの」
「へぇ」
「食べてる最中もね、モグモグしながらチラチラお子様メニュー見ててね、なんかちょっと、かわいかった」
ああ、そうか。
――『かわいかった』か。
いや、雪坂はかわいいよ。超かわいい。
でもさ、いわゆる『かわいい系』のキャラじゃないんだ。勉強も運動も出来て、スピーチ大会じゃ準優勝。大人びていて、声も若干クールな感じだし、背は高いし。雪坂好きな奴は揃いも揃って年上好き(俺もだけど)。知らない人が男子だと勘違いするのも分かる。女子が告るのも分かる。
そんな雪坂が、こんなお子様メニューの間違い探しに必死になるなんて、意外、だった。
「そういえばこの間違い探しって、店員さんに聞くと答え、教えてくれるらしいよ」
「マジで?」
「うん、ちゃんとマニュアルに書いてあるんだってさ。ちなみに100円」
「は? 100円?」
「お金取られるんだよ、知ってた? 嘘だけど」
「知るか」
「マニュアルに書いてある、ってのも嘘」
「いやまあ、知らんけど。つーかお前って無意味に嘘吐くよな」
「八千代の半分は嘘で出来てます」
「もう半分は?」
「優しさ」
「嘘だろ」
「嘘だよ。超ピュアだね」

食べ終えて、会計を済ましてから、再度雪坂んちに向かう。
暖かいところにいたから、風が余計冷たかった。
マンションを前にして、ふと目線を上げてみる。ありがちな大きさのマンションだけれど、近くで見れば聳え立っていて、その壁面を無数のベランダが占めるという光景が、妙に不思議に思えた。こんなに部屋があって、それぞれに人が住んでるのに、会いたいのは一人だけ、なんて。
ぼんやりと、雪坂の部屋を探す。
――ん?
「八千代、雪坂の部屋の電気、点いてね?」
最上階の一個下、奥から二番目だ。エクセルぽく言えばB2セル。
カーテンは閉まっているが、確かに内側から光が漏れている。
「んー、ホントだ。うん。ご飯食べてる間に起きたのかもね」
「メールしてみれば?」
「うん」
残念ながら俺はアドレスを知らないから、八千代に頼まないといけない。
……文面を考えているうちに部屋の前まで着いちゃうのが、なんか目に浮かぶけど。
八千代がメールを打っている間も、俺はカーテンを眺めていた。ほんのり赤みの入った、暖かみのある黄色のカーテン。
その向こうに雪坂がいると思うと、そして今からそこへ向かっているのだと思うと、気が気でいられない。テストを配られて、開始の合図まで表を見ちゃいけない、そんな感じだ。目を凝らして問題を見ようとしてみたり、あるいは頭に過ぎるのは、直前まで見てた教科書の公式。
自然と、雪坂に関する記憶が沸き上がる。
授業中、黙々と問題集を解いてる姿。授業中に教科書の問題を解く時間を与えられるけれど、予習をしてきているであろう雪坂は、その空いた時間をボーッと過ごすことなく有意義に費やしていた。真剣な表情。真横の席じゃあ、おちおち勉強なんてしてらんなかった。
「真川君」
雪坂と話した時間はそう多くない。他の女子と違って、無駄話を気軽に振れないのは、きっと彼女のことが好きだから、という理由だけじゃないだろう。
「八島さんの家が近いと聞いた。悪いが、プリントを持っていってくれないか?」
それでも比較的他の人よりも彼女と話す機会が多かったのは、八千代のお陰だった。八千代が休んだりすると、大体配達の仕事が回ってくる。忘れた弁当箱を持っていくこともあった。
「毎回頼んで申し訳ないが、八島さんに――」
雪坂は、俺に物を頼むときとか、三人称で使う場合は、八千代のことを八島さん、と呼ぶけれど、二人で話しているとき、二人称のときは、千代子と呼んでいた。残念ながら俺は、どんな場合だって真川君としか呼んで貰えないけれど。
ちなみに八千代の本名は八島千代子で、八千代はあだ名。小学校の時からずっとそう呼ばれている。たまにふざけて島子って呼んだりもする。
雪坂も、そうやってあだ名で呼ぶことはあるんだろうか。あ、俺の方は勘弁願いたい。あだ名がついて嬉しくないタイプのあだ名だからだ。八千代にバレてないのが幸い。
「ジュン」
なんて下の名前で呼ばれたら、きっと死ねる。五回くらい死ねる。
「ジュン」
二回も呼ばれたら十回だ。どんなに稼いても残機がなくなってゲームオーバーだ。
「ジュン、ジュンったら」
おいおい、俺にどれだけコンティニューさせるつもりだよ。
「ジュン!」
不意に、延髄へ衝撃が走る。
「痛ってぇ!」
「あ、戻ってきた」
振り返るとヘラヘラ笑った八千代がこっちを見ている。
「ちょっとは手加減しろ、逆にどっかに逝きそうになったぞ」
「大丈夫、戻ってくるまでチョップしてあげるから。ダメだったら、レイちゃんにチョップしてもらえば平気でしょ」
「いやいやねーよ!」
「ほら、メールきたよ」
ケータイの画面をこっちに見せて寄越す。
差し出し人に、雪坂怜。
『わざわざ来てもらって悪いんだが、現在は体調が優れないので、家に入れることが出来ない。すまない』
絵文字も顔文字もない素っ気ない画面。そこらの男子の方が、まだかわいいメールを送ってくる気がする。貰ってもしゃあないけど。
「だって。冷たいなぁ」
不満そうにぼやきながら、返信のメールを打つ。
「まあ、体調の問題なんだ。本人がどうこう、ってもんじゃないだろ」
「んー……そうかもね」
なんて言いながら、足はまだマンションの入り口に向かっている。
「なんだよ、それでも行くのか?」
「だって、体調が悪いことなんてわかってるし。その為に来たわけでしょ、別に遊びに来たんじゃない。もし半死半生、絶体絶命、死屍累々だったとしても、理由にならないの」
「一個おかしいから」
「もうね、決めたんだから」
ケータイを閉じて鞄のポケットにねじ込む。興奮した足取りで、エレベータのあるエントランスに入る。
「……それに、多分ね、来て欲しいと思ってるよ、レイちゃんは」
妙に真剣な表情で、疑問を返すことすら出来なかった。

また部屋の前まで来ると、八千代はもう一度インターフォンを鳴らす。
鳴らす。
鳴らす。
鳴らす鳴らす。
鳴らす鳴らす鳴らす――
「おいおいおいおい!」
「レイ! 出てきなさい! 近所迷惑!」
「迷惑はお前だから!」
「出るまで鳴らすからね! 早く! ほら早く!」
更に、拳でドアを連打する。鳴りまくる電子音と八千代の声とと相まって、妙な騒音空間が形成されている。それでも岩戸は開かないんだから、雪坂も頑固なものだ。ここまで来ると、家の中に入れてはいけない理由が、別にある気がしてきた。
「ジュン、私のケータイ取って! レイちゃんに電話しなさい」
「え、ああ、分かった」
電話を掛ける。関係ないけど、他の人のケータイって、かなり操作し辛い。
きっと扉の向こうじゃ騒音が一つ増えているであろう、雪坂のケータイがコールされる。
そのままの状態で待機していると、流石に耐えかねたのか、ブツッ、と回線切断の音。
いや、違う――?
「――し」
「もしもし、ええと、真川、真川順です。八千代の代わりに掛けてます」
「――も――こえな――」
「八千代、ちょっと静かにしろ! おい! ……真川順です、代わりに掛けてます」
「静かにしてもらってありがとう。だけど――」
雪坂が言いかけている途中に、
「え、電話出たの?」
と話途中にケータイをもぎ取られた。
「ドア開けて。寒いから入れてよ。え? 何で? いやそれ理由になんないよ、だってお見舞いにきたんだもん、体調悪くて当然じゃん。ドアも開けられないの? そんなんじゃ病院も行ってないんじゃないの? 行った? 風邪こじらせて肺炎とかになったりしてないの? ってか開けてよ、なんで電話じゃないとダメなの」
八千代が一方的に問い詰める。語気が荒い。きっと理屈をこねられる前に、力でねじ伏せようという魂胆だろうが、なかなか雪坂も折れない。しばらく、受話器越しの押し問答が続いた。
「ジュン? 何で? 別に良いけど、というかそれならいいの? 分かった。とりあえず代わるね」
何故かケータイを手渡され、言われるままに出る。八千代は、まだ不満そうにしたままだ。
「もしもし、真川順です」
「今からドアを開けるから、真川君だけ入って欲しい。入りたくないんだったら、そのまま帰ってくれても構わないが」
すぐにその言葉の意味を飲み込めなかった。俺だけ? 八千代だけじゃなくて?
「俺だけ?」
「そう。八島さんには悪いけど、エレベータ前まで行ってもらって。真川君一人になったら、ドアを開ける」
どうりで八千代は不服そうなわけだ。指示すると、渋々移動してくれた。
「移動したよ」
「そうか。じゃあ、ドアを開けるから、待っててくれ」
電話の向こうで動く音。しばらくして、ドアの向こうから床の軋む音が聞こえた。
「本当に近くにいない?」
「ああ」
ずーっと不満そうにこっちを見ているけどな、遠くから。
「よし、今開ける……」
ガチャ、とドアの鍵。
「入ってくれ」
電話が切れた。
ドアノブに手を掛けて、回す。
あれほど頑なだったドアは、何かに引っかかりもせず、開いた。
「こん……ちは」
「こんにちは。まあ、上がってくれ」
雪坂はコートを羽織っていて、またその手には手袋をしていたから、露出しているのは顔だけだった。しかし見る限りは健康そうで、血色も悪くない。声だって、少し枯れ気味なのはそもそもだ。
雪坂は鍵をかけ直す。

「そこのイスにでも座っててくれ」
部屋はわずかな廊下を通ってすぐダイニングキッチンで、かなり綺麗に整頓されていた。意外だったのは、もっとメタルラックとかガラスが天板の机とか、無機質な家具があると思ったのに、案外暖色系、木製の家具で統一されているところだった。どちらかというと、父よりも母の意見で家具が揃えられた、そういうタイプだ。他の部屋も見てみたかったが、ドアが閉じられていたのでダメだった。
「……ええと、あの、あんまり部屋を見ないで欲しいんだが」
なんて言いながら、雪坂も反対側のイスに座った。
「すまん。……でも、なんか良い部屋だな」
「えっ、あ、ああ、ありがとう」
雪坂は咳払いした。
「コーヒーしかないが、それでいいか?」
「いや、いいよ。遊びにきたわけじゃないし」
「それじゃあ、なんでここまでしてウチに入りたかったんだ」
なんで、って、言うまでもないこと、だよな? いや、そう返せるわけないんだけど。
「いや、あれは八千代が……。でも、心配だったから見舞いに来たんだ。住所は、担任から聞いた。もう二週間も休んでるんだ、そりゃみんな心配してるだろ。まだ体調は優れないのか?」
「ああ。心配させてすまない。みんなにもよろしく言っておいて欲しい。折角書いたスピーチの原稿が無駄になったし、授業もあれから大分進んでるんじゃないのか?」
思えば、こうやってまともに雑談するなんて珍しいことだった。八千代と雪坂の三人でいるときくらいしか、雑談する機会に恵まれなかったし、八千代が饒舌だから、雪坂も俺も、喋る分量が少なくなってしまう。
「そうだな。数学は四章終わったし、英語も次のに入ったよ。やっぱり風邪だと勉強に手が回らないんじゃないか?」
「いや、その分なら遅れはとっていなさそうだ。今までのペースじゃ勿論出来ないが」
だろうとは思う。きっと休み始めた時点で、それくらいの予習はとっくに終わっているはず。塾にも予備校にも行っていないのに、誰よりもよくやってる。きっと学校の授業なんて恐ろしくつまらないものなんじゃないか? いや、俺にとっちゃ別の意味で面白くないけれど。
「風邪で休んでるんだろ、無理はするなよ」
「当たり前だ。その為に休んでいる。自重できないほど融通が利かない人間じゃないと自負しているが」
「だよな」
そんな感じで、主に休みの間の学校の話で、会話は続いた。
勿論緊張していた、けれど、自分でも信じられないくらい、全くの冷静さを保ったまま会話が出来た。というか、雪坂の家で、目の前に雪坂がいて、彼女と喋っている、という事実が俺を緊張させるだけで、彼女の喋り自体は、男子とあんまり変わらないってのが大きいみたいだ(それもまたいいとこなんだけれど)。話題は用意されているようなもんだし。

けれど、そうずっと順調なわけでもなく。
「そういえば、親は帰ってこないのか? 仕事?」
「親は、この家に住んでない」
少なくとも彼女に目に見えた変化はない。それが彼女の力強さの裏付けなのか、それ以外の何かなのかは、俺には分からなかった。ただ、初めて得た情報を理解、整理するのに精一杯だった。焦ったし、地雷踏んじまった、と思った割には、雪坂の反応は全然で、逆にそれに焦った。だって、初めて聞いたんだぜ? 隠していたんじゃないのか?
「一人暮し?」
「ああ。高校に入ってから。特待生で学費は免除、生活費は奨学金と支援金で賄っている。公共住宅だから家賃は安いし」
どうりでテーブルにはイスが二つしかないわけだ。きっと初めからペアになっているのを買っただけで、彼女としては一つでも良かったんだろう。八千代さえここに入ったことがないのなら、もしかして俺が初めて、彼女とこの場で対面した、ということなのか?
「八千代はそれ、知ってるのか?」
そう尋ねると、雪坂は少し笑った。
「知ってると思う。別に隠しているわけでもないんだが、私は言っていないにしても、それくらいバレているだろう。だから今日だって、あんなに強引に入ろうとしたんだろう。一人暮しで風邪を引くと、なかなか大変なのは確かだ。無論、何も手伝いなんか要らないが」
「でも、来たのは今日が初めてなんじゃ?」
「断ってたんだ。真川君の前ではどうか知らないが、休みの間ずっと電話やらメールやらが来てたよ。担任という後ろ盾で、今日は来たんだろうな」
鬱陶しがっているが、満更じゃないみたいだ。
「しかし、何で一人暮しを?」
当然の疑問だ。雪坂以外に、一人暮しをしてる奴なんて知らない。
「進学の為だ、何も大した理由じゃない。……さて、これで満足か。そろそろ、退室してくれるとありがたいんだが」
「ああ、分かった」
それからしばらくのやり取りをした後、話が中断されたのを見計らって、ハッキリともう一度退室を命じられた。本当はさっさと帰って欲しいのだろう。そういったことを表情に出すような雪坂じゃないが、それぐらい、俺にだって分かる。
ここですんなり帰ってしまえば、どんなに楽かと思う。実際、帰ってしまうべきなのだろう。ある種、落ちた財布を交番に届ける感覚と言ってもいい。義務感ってわけじゃあないけれど。
……でもやっぱり、確認しないといけない、気がする。
「最後に質問、いいか?」
「何だ?」
平然と返す雪坂。
きっと雪坂は、その質問を聞くまでもなく、その内容を知っているのに違いないのに。
「本当に、風邪で休んでいるのか?」
氷結する空気。雪坂の態度に変化はない。俺の言葉が空気中でバラバラにならずにそのままの形で留まって、一瞬の間なのにそれを吟味しなおせる余地すらあった。
雪坂の冷めた声。
その毅然とした態度を貫くのは、恐らく雪坂には容易なことだ。驚く程いつも通りの態度。だけれど、それがいつも通りであればあるほど、そういつも通り以上に冷めた物言いをするよりも、その振舞いは強烈な隔たりを感じさせる。
「何も覚悟がないのに、詮索するのは良いこととは言えないな」
換気扇の回転音だけが、縦横に振舞っていた。

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#03:八島 千代子

「あー寒っ。寒いなぁ」
もう日は落ちていた。本日二度目の道を歩いていく。
息が白い、月が綺麗に出ている、なんてことを、考え事の合間合間に気付く。
途中のコンビニでピザまんを買った。あとお菓子を少々。ピザまんにしたのは、肉まん派だけれど売り切れていたから。大丈夫、これくらいのカロリーを摂取しても、結構な距離を歩いてるし。
そういえば最近、あんまんって食べてないなぁ。私は買わないから、誰かのを貰わないと食べないんだけれど、あれって案外美味しいんだよね。でも、案外、なの。地味美味いっていうか、たまに食べると美味しい、的なおいしさ? そもそも、肉まんに求めるベクトルとはかけ離れてるしね。
というか、あんまんって、『あんこのまんじゅう』ってことでしょ? 冷静に考えてみると、それってただのまんじゅうだよね。推すところ違くない? 『あったかいまんじゅう』じゃないと。ああ、でも肉まんとの差別化っていう意味では、あんまん、なのかなあ。ま、そういうツッコミしたら、食パン、とか突っ込みどころ満載だし……。
「……はぁ」
ため息をつく。相変わらず白い息は、緩やかな風にたなびいた。
いくら別のことを考えたって、やっぱり、レイちゃんのことが頭から離れない。
変なの、恋する乙女じゃないんだから。
……知ってた。レイちゃんが一人暮ししていることだって、風邪じゃないってことだって。
今日、ジュンがレイちゃんと会って、変わったことなんてほとんどない。私の考えが、確信に変わっただけ。それ以外に何か変わってくれたら、きっとそれが僅かなものでも万々歳って話。
別にジュンに文句を言いたい訳じゃない。よくやってくれたと思う。一番腹が立ったのは、自分。あとは、そんなことを言ったって、しょうがないって分かってる、んだけどやっぱり、レイちゃんに腹が立つ。だからまあ、こんな寒い夜道を、長々と歩いているわけだけれど。
私は今、レイちゃんの家に向かっている。
やっと、曲がる目印のコンビニが遠くに見えてきた。
まだまだ遠い道を、寒い夜に歩かないと行けないなんて思うと、ウンザリしてくる。
ほんと、バカみたい。
バカばっかりだ。みんなみんなバカ。
私だって、ジュンだって、レイちゃんだってみんなバカだ。
何が楽しくて、こんな不毛なやり取りをしてるんだか。バーカバーカ!
もう、バカはバカらしく振舞えばいいのに、ない頭を絞っちゃってさ、だから余計バカなんだよ。良い頭を持ってるんだったら、もっと上手く使えないのかな、もう!
地面を蹴り、鞄を抱えながら夜道を走る。
足音、呼吸。
周期的なリズム。
刻んでいれば、思考だって単純に。
刻んでいけば、行き場のない怒りもみじん切り。
そりゃもう、バカみたいにね。
食べたばっかりのピザまんが、食べられた恨みか分からないけれど、脇腹を痛ませる。
きっと痛みは、もうバラバラになっているから刻めないんだ。痛みの破片が、脇腹とかに刺さってる。
速さは周期に波長を掛けて、距離は速さに時間を掛けて。
遠く。
寒さは遠のく。
団欒から漏れる光が過ぎていく。
当たりかしこにそれはあるのだけれど、それが過ぎっていけば過ぎっていくほどに、それから遠ざかっている感覚がした。
ありもしない車の為の赤信号を無視して。
まるで人がいない、それどころか草一つ生えない、最果ての地へ。
例のコンビニの前の信号。
足を緩めた。息を慣らしながら歩く。パラシュートみたいに。
そんなに急いで駆け込んだって、エレベータにぶつかっちゃうんじゃない? なんてね。

で、もう一度レイちゃんの部屋の前。
チャイムのボタンを押す。しばらく待って、もう一度押す。
「すみませーん、宅急便ですー」
と、それっぽい声でドア越しから呼びかける。これで開けてくれなかったらバカみたいだけれど、他にやり方なんて思いつかなかった。バカだし。さっきは、来る前にメールを送ったから、居留守を使われたんだと思う。宅急便を装ってでも居留守を使われたなら、もう何というか、鎖国状態、お手上げだ。
だから、スピーカから声が聞こえてきたときは、思わず地声ではしゃぎそうになった。
「はい」
という言葉に、もう一度それっぽく、
「八島さんからのお届け物です」
と返答をする。それに返事もなく向こうで受話器を置く音が聞こえたから、自分の名前を出したのは失敗だったかな、と思ったけれど、すぐに内から足音が聞こえてきて、パチッって音。
鍵が開く音。
ドアの取っ手が、ゆっくりと回った。
そしてドアが開くと共に、私は取っ手を掴んで強引に引っ張った。
取っ手に引かれたレイちゃんが、よろめいて出てくる。コートを着て、手袋をして、マフラーすら巻いている。柔らかい布地がぶつかった。それを予期していたから、もう片方の腕でレイちゃんの背中に手を回し、倒れそうになる身体を支えた。
レイちゃんは短い悲鳴を上げただけで、姿勢を正して、お互いがお互いを認識しても、レイちゃんは黙ったままだった。レイちゃんの方が背を高いし、やろうと思えば私を押し出せたかもしれないけれど、そんな抵抗はまるでなく、しばらくか一瞬か、雪が降っているみたいな静けさに沈む。
「中に入るよ、寒いし」
と私の言葉への返答も、すぐには返ってこない。
けれど、
「……中も寒いが」
と、口角を持ち上げて、レイちゃんは応えてくれた。
最果ての地の、そのまた向こうの地は、暖かかった。

廊下の明かりに、後ろ姿のレイちゃん。久しぶりに見る。風邪を引いてるって感じはしない。でも、どこか違和感があって、口が裂けても元気そうだ、なんて言えない。それが何なのかは分からないけれど、こうやって久しぶりに会えて、少しは近づけたわけなんだし、これから考えればいい。
短い廊下を通り、台所に通される。
ええと、ご飯食べるっぽいテーブルもあるから、ダイニングキッチン? っていうのかな。
何というか、思いっきりかわいい部屋、なんですけれど。
ジュンが言ってた意味がよく分かる。新婚、新居、新妻のチョイスというか。
「レイちゃんの部屋、初めて見た。家具とか自分で揃えたの?」
「ああ」
相変わらずの乾いた声。そこらの男子よりもよっぽどクールだ。
「いいなぁ、私もこういうかわいい部屋に住みたい」
「そんな、かわいくなんて――」
「そう? いいと思うけどなぁ。このフリンジがついたクロスとか、あとその黄色い冷蔵庫とか、かわいいじゃん。こんな良い部屋だったら、私に見せて恥ずかしいなんてないでしょ、ちゃんと片付いてるし」
私の部屋なんて見せられたもんじゃないんだから、自慢じゃないけど。
もう見れば見るほどに整ってるし、でもどことなく生活感というか、暖かみがあるっていうか。そんな部屋にいるなら、私の、生活感に特化し過ぎて、私以外住めない部屋と、どうしても比較しちゃうよね。
「……ありがとう」
レイちゃんは少し俯きがちに応えた。
「でも、うちに来たところで何もないぞ」
どこか外れた発言。お見舞いって、遊びに来た訳じゃないんだから。
「レイちゃんは、寝てなくて大丈夫なの?」
「……今は、大丈夫だ」
目線をそらす。後ろめたいのか何なのか、正直な返答じゃないのは確かだった。
「とりあえず、座ろう」
「うん」
向かい合っても、視線はこちらでないし、落ち着かない。
ほとんど確信に近い形で、レイちゃんは風邪を引いていないと感じつつ、同時にレイちゃんに何かあったことを察する。それが身の回りに起きたことなのか、レイちゃんに直接何かがあったのかは分からないけれど。
それが何なのか、今ここで問いただしても良かった。スピーチ大会で好成績だろうが、レイちゃんはそこまで口が達者でもないから、問い詰めることはきっと簡単だと思う。
でも私は、あえて黙っていた。あるいは、レイちゃんは私に問い詰められるのを望んでいるかもしれないけれど、それでも私は、饒舌さを押さえてただレイちゃんを見つめていた。
普段は口数の少ないレイちゃんが、今日に関しては沈黙に耐えかねたのか、その口を開いた。
「千代子は、なんで私にこだわる?」
すぐに質問の意味が分からなかった。というのも、質問として成り立たないほどに、当たり前だと思っていたから。いわゆる、自明ってやつ?
「そんなの、友達だからに決まってるじゃない。もしかしたら、レイちゃんは私のこと、そんな風には思ってくれてなかったの?」
「そんなことはない! ……だが、千代子には他にも、たくさん友達がいるじゃないか。なのになんで、わざわざ私だけを気に掛けるような素振りをする?」
なんかデジャヴ。
「レイちゃんだって、たくさんいるじゃない、友達。なのに、なんで私の誘いにだけ応えるの?」
残酷な唇だ、と思う。
「それは……」
言葉に窮するレイちゃん。予想通りの光景に、私は吐きたくなるため息を押さえる。
「……私とレイちゃんは友達、それだけでいいじゃん。理由なんてさ」
「……ありがとう」
勿論、嘘を言ってるわけじゃあ、ないんだけれどね。

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#03:雪坂 怜

時間は少し戻る。

真川と千代子が帰ったのを確認して、パソコンのスリープを解除した。
画面に表示される文字の羅列に、少しだけ目眩を覚える。
英語の論文だ。一応、文法的には一通りの英文を読める――のだが、頻出する専門用語に参ってしまいそうだった。幸い、英語は日本語以上に、インターネットのデータが充実しているから、何とか解読は可能であるが……。
時間は限られたものだったが、他に手を煩わせるものはない分、それでも時間は残されている。情報を得れば得るほどに期待が薄れていくのを実感する羽目になっても、抗うことすらやめてしまうなんて、情けない真似はしたくない。
大体、三分の二まで情報を把握した。これまで読んだ中で、一番可能性を示唆する文献であるのは間違いない。自然と解読のスピードも上がってくる。技術的、論理的な話だって無視は出来ない。もし利用価値があるのなら、それをどの専門家の、具体的に誰に持ちかけるかを考慮しなければならないのだ。
そこまで視野に入れると、それに付随するより根本的な知識さえ目を通す必要さえ出てくる。幸い、上位であればあるほど日本語での概略化された説明があるから、その広げる苦労が無尽蔵に広がるわけではないが、一筋縄でないのは言うまでもない。
素人の私がいくら考えたところで、それは無駄な努力かもしれないし、この論文だって既に見限られているものかもしれないが、少しでも、的の真ん中に当てようとする、そう努めることだけが最善の手段なのだ。
――いや、違う。今の私には、『そうすることしかできない』のだ。
現実を受け止め切れていない。無力な自分を受け止められない。強くあることを自分に強いていなければ、自分を肯定できない。何かをしていなければ、その気を紛らわせることが出来ない。
全てが無意味。無駄。
如何に他人に迷惑を掛けず、姿を眩ましたまま消えてなくなる術を、抗いの裏で割り出しているのは何故だ? 実行するお金も、時間だって残されてはいないのを、頭はとっくに理解している。それについて落胆などしていないのに?
何より、何故医療機関に助けを求めない? この予期せぬ事態があろうがなかろうが、消え失せることが何よりの望みであるのは自明。医者に、他人にこんな醜い姿を、いやお前のような奴がその内心を曝すなど言語道断。ならば残された善行など、考えるまでもない。
沙羅双樹の花の色、春の夜の夢、風の前の塵に同じだ。私の矮小な存在は、その矮小さ故に容易く消える。寄せては返す波に攫われて、きっと過去へ忘れ去られるだけ。
パラグラフを読み終えたところで、解読を休める。疲労した眼を労りながら、キッチンに立つ。コーヒーメーカーのポットからコーヒーを注ぐ。保温機能を切ってあるので、空気と同じくらいに冷め切っていた。立場のないカップの取っ手が暇をもてあましている。
空腹を思い出して、冷蔵庫を開いたが何もない。空っぽがこちらを見返しているだけ。買い物に行く気にもなれない。構わない。このまま飢餓で倒れても、行く当ては同じ。結局の所、症状の進行を止めるのには、時間を止めてしまうことが一番手っ取り早い。
パソコンの前に座り、おもむろに全てのウィンドウを閉じた。電源を落とした。
そして電灯を消して、夜に浸ろう。
外は月が出ていて、清々しい夜空だった。雲のない、透明な。
そこに溶けおちるのは、今の私なら容易い。そのままにしてればいいからだ。
だから、そうしてからどれだけ時間が経過したのかは分からない。考えようともしない。
ただ。
音が鳴った。
初めはそれさえ、私の中を通って、抜けていった。
もう一度鳴って、それは幻聴ではないかと思った。
聞き慣れた音だ。甘くも辛くもある、不思議な音だ。
その音がインターフォンの電子音だと気付くのは、
「すみませーん、宅急便ですー」
という言葉による。来客だ。今更、こんな私になんの用があるのだ、と思ったが、それは無論、荷物の配達に決まってる。だから私は印鑑を引き出しから取り上げ、コートのポケットに入れてから、インターフォンの受話器を手に取った。
「はい」
「八島さんからのお届け物です」
八島さん。
お届け物。
言葉を吟味するまでもなく、廊下に出て、私はドアの覗き穴から、外の様子を窺う。
そこには、お届け物の送り主が立っていた。
八島千代子。あだ名は八千代。一緒に弁当を食べている、私の……クラスメート。
息をすることを忘れる。
私はその顔を見たくなかった。
だから、さっきだって真川君だけを部屋に入れたんだ。
彼女といると、全てを暴かれてしまいそうで。
いや違う、私が全てを暴露してしまいそうで。
それがどれほど恐ろしいことかを、私はあらゆる夜に吟味し尽くしてきたはず。
なのに。
反射的に、廊下の照明をONにしていた。鍵を外していた。
そうしてドアを開けると、私は掴んだドアノブに引っ張られた。油断していたせいで、私はそのまま外へと投げ出される。足を地面に着く前に、私は身体を支えられた。その小さな身体に。
その瞬間、ほんの一瞬に、まるで幾億の時間が過ぎったみたいだった。
そのほんの僅かな間に、激動のように多くの物を経験し、感じたかのように思えた。それは、引き延ばしというより、むしろ圧縮に近い。あるいは、その瞬間そのものが、沸騰したかのよう。気体の状態方程式、断熱圧縮だ。
突風が過ぎ去って。
「中に入るよ、寒いし」
千代子は。当然のように。
「……中も寒いが」
その言葉が、いやそれ以前に、ドアを開けたということが、私にとってどういう意味であるのかを、私の理性的なところは何故か、はじき出さないでいた。理性が導かないのなら、一体何が言葉に答えを返したというのか。
その疑問に答えはない。
ただ、緊張していた。
不安があった。
怖かった。
全身が熱く火照っていて、きっと赤熱しているみたいに紅潮しているだろう。
千代子をダイニングキッチンに通す。
千代子がいるだけ、入るだけで、そこはもう、今までのそこじゃない。
「レイちゃんの部屋、初めて見た。家具とか自分で揃えたの?」
部屋を見回す千代子。それを見ていられない。
まるで、身体を内側から見られているような感覚。
「ああ」
「いいなぁ、私もこういうかわいい部屋に住みたい」
「そんな、かわいくなんて――」
私の否定を聞ききるまでもなく返答。
「そう? いいと思うけどなぁ。このフリンジがついたクロスとか、あとその黄色い冷蔵庫とか、かわいいじゃん。こんな良い部屋だったら、私に見せて恥ずかしいなんてないでしょ、ちゃんと片付いてるし」
現在進行形で、堪らなく恥ずかしかった。けれど、それと同時に安心する自分もいた。異なる熱のある感情に、とりあえず
「ありがとう」
と返事をする。続けて、落ち着かない気持ちを誤魔化すために、改めて
「でも、うちに来たところで何もないぞ」
と釘を刺す。それは紛れもない事実だし、それ以上の意図もなく。
そしたら、
「レイちゃんは、寝てなくて大丈夫なの?」
という、思えば当然の問いかけ。大事なことであるのについ失念していたが、私は風邪という名目で学校を休んでいて、千代子は私の見舞いに来たのだった。
「……今は、大丈夫だ」
などと、まるで説得力のない言葉しか咄嗟に出ず、それに対する視線が痛い。
「とりあえず座ろう」
と提言して、半ば強引に話を流すが、向かい合った席ではお互いに顔を向き合わせたままになって、余計始末が悪くなる。まだ突っ立ってた方が良かったことに気付くのは、腰を下ろしてのことだった。ダメだ、先ほどから頭がまともに機能していない。
視線はまだ私を問い詰めているようで(いつものそれと全く変わらないのであるが)、また沈黙がそれを加速させていた。いつもよりも口数が少ないから、それだけで威圧を感じざるを得なかった。いや、いつも通りの饒舌さで問い詰められたりしたなら、私はそれに対応し切れないのは確かだろうが。いずれにせよ、私は追い詰められていた。
――何に? 何故?
今更、考えるまでもない。仮に私が千代子に全てを話したとして、それが何になる? 困らせるだけだ。迷惑を掛けると分かっているのにあえて自分本位に振舞うほど、私は愚かではない。いくら千代子がそれを求めたとしても、それは自傷行為の幇助と大差ない。
そこまで考えた、もとい振り返った後に、ふと不思議に思う。
何故千代子は、私の目の前に座っている? 何の為に? もし今までの考えが正しいならば、それは自ら面倒に介入しようとしているだけだ。私には、分からない。多くのものを避けてきた私には、その理由も目的も、そして千代子の思惑も、何も分からない。
その疑問が、自然と口から漏れていた。
「千代子は、なんで私にこだわる?」
それに、千代子は、さも当然とでも言うように、言葉を返してきた。
「そんなの、友達だからに決まってるじゃない。もしかしたら、レイちゃんは私のこと、そんな風には思ってくれてなかったの?」
その言葉は受け止めきれない。それにどんな意味が載せられているのかを、私は把握しきれないままに、ただ否定を返していた。私が一方的に友達だと思っているならまだしも、その逆などあり得ない。それしか私には、分からなかったから。
「そんなことはない! ……だが、千代子には他にも、たくさん友達がいるじゃないか。なのになんで、わざわざ私だけを気に掛けるような素振りをする?」
言葉が先行して、思考が追いつかない。
「レイちゃんだって、たくさんいるじゃない、友達。なのに、なんで私の誘いにだけ応えるの?」
「それは……」
だから、言葉が止まれば、そのまま時間も止まる。
取り残された思考は立ち止まった時間まで追いつこうとしているが、迷走しているが故にそれもままならない。尺度の失った私には、上も下も分からない。無論、前後さえ。
結局、どこにも到達しないまま、千代子はあまりにも優しい笑みを交えて、
「……私とレイちゃんは友達、それだけでいいじゃん。理由なんてさ」
と、時計の針を動かした。
その一瞬だけ、その加速度を覚えている間だけは、今私の纏っているコートを取り除いてもいいかな、と思えた。ひとえに、身もだえるほどの温もりを感じたから。その余熱が目頭に溢れて、私は尚更、前を向けなくなった。
「ありがとう」
蜃気楼に、言葉も歪んでいた。
それだけの温度が千代子の言葉に込められていた。
でも、だからこそ怖いのだ。
冷たい壁になら、どんな言葉でも吐ける。もたれかかることだって。自分の体温が移って温まった壁であれば、それで身が擦り切れることもない。洋服の保温としての機能だって、結局は自分の体温を逃がさないようにするだけだ。
「……そういえば、髪型変えたんだな」
「あ、うん、切った切った」
以前よりも短くなっている。私はファッションに疎いから、なんていう髪型かは知らないけれど、似合っていると思う。
「この前買った服と合う感じでね」
私が休み始める前に、一緒に映画を見に行った時だ。そのときに買い物もした。
「ああ、あの白い奴か」
「そうそう。一回家に帰ってたら、着てきたんだけれどね」
「そうか」
「うん、あと――」
――分かっている、強引な話題転換だったと。それでも、いつも通りを取り繕えれば、それでいい。そうやって平坦であることが、きっとあるべき形だろう。

「もう遅いが、帰らなくて大丈夫なのか?」
あれからしばらくして、もう時計は9時半を示している。駅まで遠いし、また千代子の家の最寄り駅までも結構な時間がかかるから、何度か帰宅を促したものの、「まだ大丈夫」と会話を続けていた。しかし流石に遅い。
「んー、まあ、明日休みだし、レイちゃんがいいなら、泊まってもいいかな、なんて」
「泊まる? うちに?」
断る理由を思いつかなかったが、しかし二つ返事に承諾することも無論出来ない。
しかし、言葉に窮している間に、
「うん。いいよね? 今から夜道を一人でってのも、危ないし。ああそうだ、まだ夕飯食べてないけれど、どうする? レイちゃんもまだだよね? サイゼでも行く?」
「ん、ああ、そうだな……」
と、まるで断る隙を見い出すことすら出来ずに、千代子のペースに載せられていた。
気付いたときには外に出ていて、夕食を取ろうと夜道を歩いていた。風邪という名目は、一体どこにいったんだ。今更、それを装うつもりは毛頭ないが、ぞんざい過ぎるのも問題だ。
それでも、千代子はそれを指摘しようとしなかった。ご飯を食べている間も、また部屋に戻ってきた後、部屋でゆっくりとしている時も。気付かないフリをしているという程白々しくもなく、無関心ともまた違って、私には何なのかよく分からなかった。
今は、千代子がシャワーを浴びていて、私一人ソファで座っている。極端に食を欠いた生活をしていたから、久しぶりに胃の満たされている感覚につい、うとうととする。淡々とニュースが流れている。焦点はその内容にない。昨日と比べると、まるで別人みたいな現状。きっと、これが普通ってやつなんだろう。
テーブルに開けられたポテトチップスを一枚だけ手にとって食べる。外食帰りに寄ったコンビニで、千代子が買ったものだ。深く考えることのアンチテーゼのような軽い食感、なんて仰々しくてバカらしいが、きっと音を立てて割れるのは、このお菓子の付加価値というべきか。テレビの音、バスルームからは水が床を打つ音、ポテトチップスの割れる音、音を敷き詰めてさえいれば、確かに空白に苛まれることもない。
別にそれをシニカルに捉えてるわけじゃない。ずっとこの満足感に浸りたいくらいだ。
安心感がある。温もりがある。ただ座っているだけなのに、それだけで私は全ての成すべきことを果たしているという充足感がある。お腹も一杯だ。夜は窓の外にあって、暖房もつけているから、その冷たさも部屋の外。でも――。
寝間着(私の)に着替えた千代子と入れ替わりで、私もシャワーを浴びる。
湯気っぽい脱衣室で、手袋やコートを脱ぐ。目を閉じたまま。
そして中に着ていた寝間着も、下着も。ずっと、目を閉じたままに取り去る。
それでも指伝いの現実が、瞼の意味を希薄にさせる。いくらコートや手袋で隠していても、それは視界から消えるまでのこと。仮にそれで無かったことに出来るなら、私の目に映らない全ての世界を消してしまえる。そんな馬鹿なことなんてないでしょう?
――シャワーを浴びよう。
千代子の後だから、初めからお湯が出る。浸透して身体の輪郭をなぞる。他の音を黙らせる。まるで切り取られた空間へと押し寄せてくるのは、孤独感。こんなにも温度が、湿度が私に触れているのにね。ただ幸いなのは、それは私の中で反響するばかりで、どこにも伝播することはない。私の悲しみのあり処と同じ。心中に秘めて、遠いところまで持っていこう。
十分に濡らしてから、シャンプーを手にとって髪を洗う。手慣れた所作。それの裏拍子を打つのはネガティブな思考なれど、それもまた慣れた日常。
そうして洗い流してからコンディショナを施し、顔を洗い、シャワーを止めてからそして再度手にとったのは、シャンプー。
病の進行したこの身体は、石鹸では酷く洗い辛い。
病名はまだ付けられていない。調べたところ、症状はDNAに由来するが、それは突然変異や遺伝されるという、先天的な原因はないとされ、可能性としては、特殊な振る舞いをするウィルスではないかと考えられているらしい。
幸い、感染力は限りなく低いそうで、人から人への感染例は見られていない。それ故にサンプルがあまりにも少ないため、目に付くような症状であるにも関わらず、治療方法はおろか、資料さえ揃ってはいない。
いわゆる、奇病である。
その症状は、鳥獣への変化。
ガンのように誤ったコピーの暴走というわけではなく、あたかも、誰かが意図的に仕組んだかと疑ってしまうような、身体全域に及ぶDNAの転写。更に、通常は細胞の代謝が行われないような部位に対しては、強制的に破壊と再生のプロセスを踏ませるという、極めて特殊な物質を分泌する。
私の身体は、既にもう、人間のものとは言えない。胴体には黒色の被毛が生え揃い、四肢の大部分さえ覆っているのだ。更に、進化の名残である尾てい骨にも異常が見られて、まだ作りかけの不揃いな尻尾がそこから垂れている。人にも動物にも成りきれていないこの私の身体は、どう見ても化け物と表現する以外、思いつかないでいた。
それでも、問題はない。どちらにせよ、私は元々孤独な存在、化け物に等しかった。誰にも相容れない、孤独な。この身で成さなければいけないことと言えば、一人で立っていることぐらい。もし朝靄のように消えていけるのなら、化け物であろうとも、もはや関係がない。
――なのに、泣いていた。
毛まみれの身体をよく泡立てられたシャンプーで洗っている最中、私は自分が嗚咽を上げていることに気付き、更には自分が涙を流しているという事実を発見する。
驚いて私は手を止めたが、そうしたところで明らかになるのは、ただ自分が泣いているという事実ばかり。戸惑いを垂れ流したまま、湯の張った桶に手をいれて、泡を取り除いてから伝う涙を拭うも、シャワーを浴びて濡れた肌では確認さえ出来ない。ただ、確かに私の視界は著しく滲んで不明瞭であるし、この場で咽ぶことが出来るのは私だけ。
きっと私が泣いている。
長いこと忘れていた、泣く感覚の認識が正しいなら。
けれど、その理由がない。
いつも理由を足掛かりにしてきた私には、その涙は不可解そのものだった。
その不可解さを飲み込むよりも、涙そのものを疑う方が簡単だった。
私がそれに対して出来ることとは、目を瞑ることだけ。コートと手袋をするように。
そうすれば、誰もいないところへ歩いていけるから。
まるで人がいない、それどころか草一つ生えない、最果ての地へ。

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#04:八島 千代子

あまりにも辛そうだったから、私は何も言えなかった。
シャワー上がりのレイちゃんは、相変わらず雪の中にいるみたいな格好で。
まるで心の中も雪模様みたいに、酷く思い詰めた表情で。
触れてしまえば、一片の雪みたいに消えてしまいそうで。
かと思えば、晴れの日の残雪みたいに、放っておけばいなくなってしまいそうで。
なのに、町並みを覆い隠す雪みたいに、すぐに普通なフリをして、不器用な雑談を広げる。
いわゆるジレンマ? を抱えたままに、私もそれに返事をする。私にとって雑談の相手をするってのは、鏡が光を跳ね返すのと同じくらいに当然なわけで。
テレビを付けっぱなしに、私もレイちゃんも、適当なダラけ具合で時間を過ごす。たまに黙る時間があったり、ケータイを弄ったり。クラスの男子から借りた漫画を読んだりもして、無為に過ごす。レイちゃんも小説を読んでたりしてね。良い感じの居心地で、ふと気付いたときに、ついうっかり寝ちゃったり。それはレイちゃんも同じみたいで、
「あ、今寝ちゃってた」
「……私も」
と、自分自身へのリアクションでお互いを起こし合う始末。
いや、いい加減眠いならちゃんと寝ればいいんだけれど。
「歯ブラシ、余ってたりしない?」
「見てみる」
と、思い立って聞いたときにはもう3時を回っていたと思う。こういう無駄な時間って悪くない。小学校の給食でたまに出た、粉末のコーヒー牛乳みたいなね。ちょっと牛乳を飲んでから粉を入れないと、溢れちゃうやつ。
そうして歯を磨いてから、一緒に布団を敷く。
「そっちの端を持ってくれ」
「よっしゃ任せろ」
「ん、なかなか合わないな」
「不器用だね、ちょっと貸してみ」
勿論、って言うとアレだけど、お客さん用の布団を用意しているはずもなくて、一つの布団で一緒に寝ることになった。どちらかがソファに寝るってのも悪くないけれど、まあ、別にね? 回し飲みとかよくするし。
レイちゃんは相変わらずコートと手袋で、それを取る素振りも見せない。私もそれについてはなにも言わなかった。そのコートと手袋だって、冷たい雪を避けるために身につけているものかもしれないし。
同じ布団の中でも、体温が届かない距離感。
若干端っこ寄りに寝るレイちゃんは横向きに寝ている。
半分寝てたも同然の私たちには、眠りに落ちるほうが近くて。
二、三個の会話も、重たい水の中で会話したみたいに曖昧。夢かも分からないけど。

目を覚ましたきっかけは分からない。
私はどこだって眠れるタイプだし、悪い夢を見たって目覚まし三人がかりじゃないと起きないし。何かにぶつかって目を覚ましたわけでもない。
だけれど、目を開けた途端に眠気も覚めて、まるでスパッと切れたみたい。
ああ、だから起きたんだ、と気がつく。矛盾してるけど。
時計の針と夜の静けさの音に混じって、泣き声が聞こえる。
レイちゃんの泣き声は。
何故か、聞き慣れた声に聞こえて。
私はいつも通りに言葉を返す代わりに、そっと距離を詰める。
布団の中の暖まった空気を共有する。
お風呂の縁に落ちた水を、指で導いて一つの水たまりにするみたいに。
そうすれば、きっと彼女のささやかな悲鳴を吸収できる気がして。涙を拭うハンカチの代わりにね。
それから、私はレイちゃんの黒い髪をボーッと見つめていた。明かりを付けたときの艶やかさが目に浮かぶ。カーテン越しの月光だけがやわらかく、この部屋の暗さを伝える。
レイちゃんは起きてはいないと思う。
いつだって、涙を見せなかったから。誰よりも涙を隠すのが上手だったから。それこそ、男の子みたいに。男の子って、女の子に比べて意外なほど、泣いたりしない。感情の振れ幅が小さいのか、それとも我慢が得意なのかな。
そう考えてみると、私だってそんなに泣かないな。だから野郎っぽいって言われるのか。きっと泣かない理由は、私は、前者。
レイちゃんは女の子。多分、我慢が得意な。
夢の中じゃないと、人前じゃ涙を流すことを赦せないんだろう。
だったら、私は――
じっと、レイちゃんの声を聴いていると、レイちゃんは不意に寝返りをうち、その綺麗な顔をこちらに向けた。ぶつかりそうになって咄嗟に避けるも、目の前、ほとんどお互いに触れているような距離だった。眠ったまま、啜り泣きを続けている。波の音みたいに、ただ長々と。
もう少し明るいのならば、きっと彼女の頬は光が照り返し、濡れていることが分かるだろう。彼女の睫毛もまた、濡れそぼって束のようになっているに違いない。私は、その柔らかな頬も、その物憂げで優しい眼差しも、全て奪ってしまいたかった。
それは他の子みたいな、一方的な恋愛感情じゃ全くない。そのつもりだった。ただ、私がレイちゃんに優しくするのを、レイちゃんが私に傷を舐められるのを、許して欲しいというだけ。つまるところは、私はレイちゃんがドアを開けてくれなかったことが、心底悲しかったのかもしれない。
レイちゃんの寝顔を見ながら、そんな悲しみと、少しの安心を覚えつつ、私はただ時が過ぎるのを待った。そのまま、意識は傾いて、まどろんで――。

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#04:雪坂 怜

泣いていた。
隣には誰もいない。何の拠り所もない。しゃがみ込んでいる場所は高く、じっとしていなくても落ちてしまいそうで怖かった。まるでCGみたいに、真っ平らな白。
隣には誰もいない。深い夜の闇、私は溶け込むことが出来ず、星を夜空に探しても見あたらず、夜と地球の境目もありやしない、そんな冷たさに彷徨うみたいで、心細かった。
隣には誰もいない。あるいは酷く混み合った交差点。新聞紙みたいなグレースケール。私は幽霊で、誰に触れてもすり抜ける。混み合っているから、私がいた場所にも人はぎゅうぎゅうに押し詰められる。そうしていたら、その人混みの中に自分の姿を見つけて、私はそれに重なって一緒に歩いた。そうでもしないと、まるで自分の存在さえ消えてしまいそうで。
隣には、隣には――。
繰り返す反復に、突然差すのは反駁。
隣には誰もいない。
本当に?
本当に拠り所はなくて、暗い夜空に星はなくて、交差点では何にも触れることが出来なかったのか?
貴女は、私は、本当に一人なのか?
本当に一人で立っていられるほど、強い人間なのか?
――そうだ。
泣いているのに?
――いままで一人で立ってきた。そしてこれからも。
本当に?
――私は独りだ。ならば、一人で立つしかないだろう。
本当に? 本当に一人なのか?
なら――何で隣に、千代子が眠っているの? その扉を開けたのは何故? 開けるのを怖れていたのは誰?
日陰から日向へ出るかの様に、何の抵抗もなく夢は醒める。
目の前には見慣れた壁。
まだ夜は深い。
思い出す。どんな夢を見ていたのかを。
高いところ。風が吹いている。遠くまで風景が見渡せて、影を伸ばしながら赤い夕日が沈み行く様を、空の深い青を、千代子と眺めている。
そして一転して暗闇。何故か夢の中では私は星で、隣に月が掛かっているのを見る。綺麗な満月は仄かに黄色めいて、こちらに饒舌に話しかけてくるのだ。不思議な夢。
原宿に買い物に行く。休日で天気も良いから、混雑して思うように歩けない。暑いとぼやく千代子と、冷たい、オレンジ味のフラッペを二人で一つ買って一緒に飲んだ。
千代子と、千代子と――。
そう、いつも隣には、千代子がいたのだ。
自分は独り? 笑わせるな。
自分の幽かなアイデンティティを見続けてくれていたのは、いつも千代子だった。
何よりの支えだった。
知っていた。気付いていた。
けれど、知らない、知らないと自分に言い聞かせていた。
本当は。
千代子が、私が『雪坂 怜』として振舞うことなど望んでいないことを、自分の偽りない感情を、『レイちゃん』として出力することを望んでいることを、私は知っていた。
でも私は、それを推測より確かなものへ至らしめるほどの勇気はなかった。
……確かめるなんて、怖くて。
もし、もしそれが間違っていたら。私の幽かな、蝋燭の灯火のように幽かなアイデンティティは誰にも受け入れられない。冷たい檻の中で、孤独に、孤独に。
本当に、私は思ったことを言っても良いの?
感じたことを?
言えるはずがなかった。
どんなに彼女が暖かくても、全ての観測、推測は私の頭の中。
試してみるまで、全ては木漏れ日に似た幻なのだ。
失うのが怖いなら、触れなければ良いと。見ているだけで満たされるならと。
なにより、完璧な人間を装えば装うほど、『雪坂 怜』は肯定される。自分の居場所は常にそこにある。確かな実感をもって、自分はそこにいて良いのだと認識出来る。幻ではないのだ。だから、私はその安定に手を伸ばしていた。
楽だった。
たとえ凍る鉄格子の中であっても、私はそこにいても良いのだから。
なのに、その鉄格子の隙間からは、ほの暖かい光が私を誘っていた。
私を誘っていても、その檻を溶かそうとしていても、私はそれが幻ではないかと、だってこんな私を照らす灯りなんて信じられなかったから、私は手を伸ばす事なんて、出来なかった。灯りに近づけば近づくほど、それは嘘だよ、という声が聞こえてしまいそうで、近づくことなんて出来なかった。
今なら、出来る。
でも、もう遅い。
身体が熱い。
隣には千代子が寝ている。
私は一度だけ、強く千代子を抱きしめた。
滲む涙を拭い。
私は鞄を持って部屋を出た。

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#05

結局、寝れなかった。
休日なのに、制服に着替えて外に出た。朝日は限りなく遠く、赤かった。冷たく刺すような空気がぼやけた頭を引き締める。それでも、心に開いた穴からこぼれ出る何かを止めることなど出来やしない。
「あら、ジュンくん、早いわね、おはよう」
と声を掛けるのは、たまたまゴミ出しに出てきた八千代のお母さん。
「あ、おはようございます」
何も言われていないのにまるで、休みの日にこんな早朝から、しかも制服を着ている理由を尋ねられたみたいで少し気まずい。それでも、俺はここでたまたま会えたこと感謝しなくちゃいけない。
八千代の家と俺の家は隣で、ゴミ捨て場は少し行ったところの曲がり角。俺は駅に行くまでの自転車を押しながら、並行して歩いた。
「八千代、もしかしてまだ帰ってないですか」
そう聞くと、
「そうなのよ、えっと、レイちゃん? のお家に止まってくるって」
と笑う。薄々感づいていたが、しかし嫌な予想ばかりが当たるもので。
「そうですか、どうもありがとうございます」
そうして別れてから、俺はチャリに乗って、いつもの朝ではあり得ないような、低速で走る。まるで何かがまとわりついて抵抗があるみたいに、自転車が重く感じた。
のらりのらりと駅に着く。定期で改札を抜け、学校の方へ行く電車に乗る。
別に、雪坂んちに行こうと思っているわけじゃない。ただ、雪坂んちに向かってるだけ。
見慣れた風景を通り過ぎていく。その淡々とした空気は、否応が無く考えが頭の中を巡るに巡る。
「本当に、風邪で休んでいるのか?」
「何も覚悟がないのに、詮索するのは良いこととは言えないな」
俺は聞くべきだったのか、聞くべきではなかったのか。
分からない。分からないけれど、ただ一つ分かったことは、雪坂が、俺を求めてなどいない、ということ。もっとハッキリ言うと、雪坂に拒否られた、ってことだ。
それはいい。いやショックだけれど、別にそれでもう雪坂と話しちゃいけない、って訳じゃない。それから仲良くなればいいわけだし。……ショックだけど。
何よりショックなのは、雪坂が八千代を泊めたことだ。
友達んちに泊まるなんて良くあることだし、何より同性なのだから、なんて思うけれど、邪な想像だとは分かっているけれど、やっぱり、二人は付き合っているんじゃないか、と勘ぐってしまう。
でもそしたら、八千代は何で俺を連れて行った? 単純に足代わり? 嫌がらせ?
それに雪坂も、何で俺だけ中にいれてから話したのか?
分からない……やっぱり、もしかしたら、そんな関係じゃないのかもしれない。いやきっと、無いのだろう。
でも、だ。
雪坂に、八千代の前でしか見せない表情があるのには気付いてる。格好悪い話だけれど、その二人の関係に嫉妬するくらいに、嫉妬できるくらいに、雪坂と、八千代以上に親密になることなんて出来やしない、俺には出来ないということを思い知るには、十分だった。
各駅停車で、ドアが開く度に冷たい空気が流れてくる。
好きだったんだよ、本当に。誰より。チープな言葉だけれど、何時だって雪坂のこと考えてて、一喜一憂して。俺は特に運動が出来るわけでもない、取り柄ったってなんも思いつかない典型的なダメダメ高校生だよ、でも、それでも唯一譲れない点があるとしたら、俺は雪坂が好きだ、って言い切れるくらいに、好きだった。今だって。
別に、今回の件でもう、雪坂は諦めないといけない、ってわけじゃないけれど、頭ん中がわけ分かんなくなるくらいには、わけ分かんねーよ。
というか、あれだ、そう理屈じゃなくて、もう、なんかダメなんだ。友達とか同性とか、付き合ってるとかそんなんじゃなくて。ただ、雪坂んちに八千代が泊まったってことが、良く分からない形で突き刺さってるんだよ。
終点の駅について、電車を乗り換える。
いつも通学するときには混雑していたこの駅も、休日の早朝では静かだった。色々な線が乗り入れているし、混雑しすぎて、人混みのせいで乗り換えに間に合わないときだってあるのだ。それが、今ではパラパラとまばらに人がいるくらいで、まるで災害か流行病か、世界人口の80パーセントが死滅してしまった世界みたいだ。
まもなく、一番線に――、のアナウンス。
そんな荒廃とした世界には、冷たい風が吹いて、乾いている。
ホームに電車が入ってくる。更に冷たい風を巻き込んで減速し、ドアが横切るペースが落ちる。
時間が遅れているみたいに。
巨大な機械が揺すぶられる音。
現実が吹きすさび、理想は荒野の廃墟で成れの果て。
ドアの開く音は灰色で。
軋む音は満ちて、俺の目の中を横切る旅人は、それでもなお、雪坂だけ。
がらんどうの世界、いるはずのない幻を見る――
そしてその幻に導かれる。俺は彼女の後ろをついて歩いた。
本来乗るべき電車のドアが閉じる。幻は俺に気付かず、それどころか何も見えてないみたいに、まるで日々繰り返し徘徊する亡霊のように、虚ろな歩行で駅を歩く。
乗り込んだ電車は、先ほど俺が降りたばかりの電車だった。ガラガラの車内。俺は隣の車両に乗り、彼女の様子を探る。まるでストーカーみたいなことをしていると自覚しつつ。充血し切った目、赤く腫れた瞼、頬は涙に濡れて光を反し、時折震えるようにするしゃっくり。
話しかけることが出来たなら、話しかけただろう。大丈夫か、とか、どうしたんだ、とか、声を掛けてやりたいと思うのは当たり前。けれど、そこにぴったりと当てはまる言葉は、全く見つかりやしない。見つかるはずがない。
それは、昨日の今日だからじゃない。俺よりも、その言葉を掛けるべきヤツがいる。
ドアが閉まり、電車は走りだす。
どこに辿り着かせるのかを、曖昧にしたままに。

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#06

レイちゃんが、いない。
まるで日が昇る頃には、夜空が嘘のような青空を見せるみたい。
残された鍵。
カーテンの隙間から差す日の光。
寝るままの電灯。
広げられたお菓子の袋。
書き置きもメールもない。
間を埋めるのは、ただ淡々と刻む時計の秒針。
そしてすぐに家を出る。
私を起こしたのは、ジュンからの電話だった。
「お前じゃないと、ダメなんだろ……!」
と。
電話の向こうの声すらも涙混じりで、そんな幼なじみに「ありがとう」と言って、私は息を切らしながら走った。寝坊した朝みたいにね。そうしなくちゃいけなかったし、そうすることがジュンに示せる最大の感謝。
でもそんなことを考えていたのは僅かな間。
滑り落ちるように階段を下りる。エレベータなんて待ってる時間はない。
頭に回る酸素が少ないのを分かっていても、頭はフル起動、レイちゃんのことを考えていた。どうして、なんで、もあったけれど、何より、今はレイちゃんは何を考えているのかな、と。いくら考えたって仕方がない、だから今から会って話すんだろう? と、酸欠や頭痛が囁いても、今レイちゃんのことを考えないでいられるはずがないわけで。
冷めた空気に反して身体が熱い。手袋は鞄に入れたままだけれど、指定されたローファーなんておしとやかさを強制する靴みたい。ああもう。こんなんならレイちゃんちにある何か別の靴、借りれば良かったな。確か一足、使い込まれた感じのランニングシューズがあった気がする。
信号で止められて、息を整える。身体が熱いのに気付く。吐く息は白いし、頭はガンガンするし。寝起きで走るもんじゃないね、お腹も空いてる。目の前をすんすんと通り過ぎていく優しくない車達は、この訳ありげなお嬢さんを駅まで連れて行ってくれないのかしら、と思ったけれど、そんならタクシーに乗れって話か。生憎そんなお金はないんだけれど。でもまあ、それでも乗せてくれるってのが温情ってもんだよね、私だったら絶対に乗せないけど。
ちょっと思ったんだけれど、こんなに急いだところで電車の来るタイミングが悪かったら歩いても同じだよね。一番最悪なのは、ギリッギリで電車が出発するって奴。ケータイで予め時刻を調べろって話なんだけれど、調べててもさ、たまにちょっと長くホームに留まってたりしてさ、それで諦めないほうが良かったなぁ、なんてこともあったりして。あと、調べるのに費やしてた時間を移動に使っていたら間に合っていた、とかさ、あああバカッ! ってなる。
……。
どうしたのかな、レイちゃん。
何か根拠があってのことじゃないけれど、私がレイちゃんを害したというわけではないはず。きっと何か起きたのか、それとも、何か起きていたのかのどちらか。ううん、きっと後者。気付いていたのに。なら私はレイちゃんに全てを問いただすべきだったの? それでも良かった。別に何かを怖れていたわけじゃない。
でも、少しだけ、もう少しだけ。レイちゃんが自分から歩み寄ってくれればいいなって、思っただけなのに。そう思うことは残酷なこと? かもしれない。でも、そうでもしないと、私はいつまでもレイちゃんの側にいられるわけじゃない。私がその暗闇に手を突っ込んで、中に引きずり込んだところで、結局のところ私の中に捕らわれるだけ。友達なら、そんな無責任なこと、出来るはずがない。
駅に着いて、そのままの勢いで改札を抜ける。ちゃんとチャージしてあってよかった。階段を駆け上がると快速の通過待ちの電車が私を待っていた。ありがたい事に暖房がガンガンに利いていて、私は発車寸前までホームに出て息を整えていた。こんなに本気で走ったことなんて体育の授業でもない。部活もやってないし。
でもまあ、こんな時に走らないで、何の為に脚は付いてるの? って話。
ジュンにメールすると、すぐに返信が来た。まだ電車に乗っているらしい。レイちゃんはまだ泣いているらしい。もしかしたら車両が水浸しになってるかもしれない、レイちゃんは泣き虫だから。よく教室だって水浸しになっていたしね。
車内はガラガラで、私は座席に着いた。乗り換えの時間をケータイで確認して、あとはそわそわしながら、何度も通った景色や中吊り広告を見たり、意味もなくケータイをパチパチと開け閉めしたりする。相変わらずつり革は行儀良くお揃いの姿で整列しているし、電車ってのはよく分からない雑音で一杯の癖に、そのどれもが空しさを満たしてはくれない。別にそんなこと期待してないけれど。
ああ、喉が渇いたな。炭酸飲みたい。コーラとか。乗り換え駅に着いたら買おう。
いつもは居眠りする電車も、起きているとゆっくり進むもので、喉の渇きと相まって焦れったく感じる。本当ならあっと言う間に着くのになあ。まだここ? ああもう、イライラする。
ようやく駅に着いて、コーラを買ってから乗り換える。喉を通り過ぎる刺激が美味しい。私は割と炭酸って一口で飽きちゃうのだけれど、喉は渇いていたからたまらなく美味しくて、そのまま3回くらいで飲み終える。生き返る感じ。出発する前に缶を捨てて、丁度いい案配で電車が出発する。
一応、ジュンに乗り換えたことを報告する。私が乗った電車は快速で、追いかけるには丁度良かった。事が事じゃなかったら、スケールの大きい鬼ごっこしてるみたいで楽しいんだけど。
そういえば、快速にはあんまり乗らないから、こうやって一瞬でホームを通り過ぎるのって新鮮だ。私の駅には止らないから、乗るとしたら間違って乗るくらい。一応、快速で先回りして各駅に乗る、ってやると、少し早く家に着くんだけれど、そういうのって面倒だしね。ゆっくり、角の席で寝るのが一番快適な通学ライフだと思う。
なんて、どんなに別のことを考えたって、考えようとしたって、そのバックグラウンドではレイちゃんの事ばかり考えている。同じような自問自答をリフレインリフレイン。答えが出ないと分かっていても、答えが既に出たことでさえも、レイちゃんは、レイちゃんは、と。まるでそうすることで電車の車輪を回してるとでも思ってるみたいにね。
ジュンからメールが来る。終点の駅に着いたらしい。レイちゃんはすぐに立とうとはせず、まだ電車で座ったままらしい、と読んで、矢継ぎ早にメールが来た。人がパラパラと乗り込んできて、隣に人が座ったタイミングで電車を降りたらしく、ジュンは後ろからそれを追っているらしかった。
終点まであと20分。
思い切って、私はレイちゃんにメールを送った。
単に何か用事があって、私への連絡を忘れていただけ、というならいいんだけれど、泣いてると聞いてそんな期待が出来るはずもなく。送ってすぐに来たのはジュンの、レイちゃんが立ち止まってケータイを確認しているという報告のメール。そこまで逐一に報告してくれなくても良いんだけれど、ひとえに惚れた相手のわけだし、必死なんだろう。無事に済んだら、3人で遊びに行く約束でもしようかな。
レイちゃんからの返信はすぐには来なかった。再度送られてくるジュンのメールによると、ホームのベンチに座ってケータイを弄っているらしかった。
ケータイが震える。
そして時間は止まる。ケータイを開くパチリ、という音が合図。
勢いの余った時間の流れが波を立てる様に、思い出が逆流する。
レイちゃんと初めてあったときのこと。いや、見かけたときのことかな。
背格好が良くてスマートで、運動の出来そうなレイちゃん。第一印象はそんな感じ。入学式のあと教室に移動する道すがら、体育系の部活の勧誘ラッシュの矛先が向けられた瞬間、
「悪いがどの部活にも入るつもりはない」
と、大声でもないのによく通る声で断っているのを見た。声を掛けられる間際で、その一言に遮られて第一声を失っている隙に、スタスタと廊下を抜けていったのを覚えている。同時に、階段の踊り場に張ってあった、文芸部のポスターの前で立ち止まっているのも。結局、レイちゃんは入らなかったけど。
入学してすぐは、同じクラスだったけれどあまり接点がなかったと思う。私は自分から声を掛けないし、レイちゃんもそうだった。まあ物怖じしない性格で、それなりに人当たりのいい振る舞いは出来るから、友達はすぐに増えたし、友達の友達とも簡単に仲良くなったから、浅く広くなネットワークは他クラスに及ぶのも早かった。
その頃からレイちゃんはカッコいいと話題になっていたけれど、私は別に興味なんてなくて、何となく、寂しそうにしてるなあ、と思ってた。向こうはきっと私に気付きもしなかったと思う。既にレイちゃんの周りには人がいっぱいいたし、私だって派手派手なわけじゃないしね。
レイちゃんと初めて会話したのは、私が図書委員の友達の仕事が終わるのを待つ為に、図書館前の階段で座ってたとき。レイちゃんは図書館に本を返しに来たみたいで、レイちゃんが入る時には、お互いに面識はあるから、軽く会釈するだけだった。
話したのは本を返して戻ってきたときで、前にやっていた子供向けのアニメの主題歌を鼻歌してたら、
「それは日曜にやってた奴か?」
と尋ねてきた。
「そうだよ。見てたの?」
と聞き返すと、
「いや、見てなかった。部活があったから」
と応える。
「そっか。私は妹がいたから、一緒に見てた」
「離れてるのか?」
「うん。今は小3だったかな。レイちゃんは?」
この頃から、私はレイちゃんって呼んでた。まあクラスの女の子全員、下の名前でちゃん付けで呼ぶくらいに馴れ馴れしくしてたから、別に特に意味があった訳じゃない。深い付き合いなんて面倒だったから、初めっから親しい振る舞いをしていた。別に意図したわけじゃないけど、今思えばそういうことだったんだろうな。
「いる。双子の妹。第一行ってる」
「吹奏楽で有名な?」
「ああ。小学生の時からやっていたから、それ目的で入ったみたいだ」
少し遠くを見ながら話すその表情が、印象的だった。
「へえ。上手いんだ?」
「上手いんじゃないか? よく分からないが」
「そうなんだ」
会話はそれで一旦途絶えたから、鞄から飴を取り出して口に放る。
「あ、レイちゃんも食べる? チェルシー」
袋の口を向けると、レイちゃんは
「もらおう」
と、言って飴を取り、包装を破って口に入れる。
「何味?」
三種類の味があるのだ。
「ミルクティー」
「同じだ」
レイちゃんは小さく頷いて、またしばらく沈黙。
「好き?」
「割と」
袋を再度取り出して、
「もう一個持ってって良いよ」
と差し出すと、少し渋ってから、
「ありがとう」
と飴を取る。
「ヨーグルト味だ」
レイちゃんは包装を見てそう言ってから、鞄のポケットにしまった。
それからちょくちょく、何か機会がある度に喋るようになった。アドレスも交換した。お互い筆無精だからそんなにメールはしなかったけど、それでも、友達って言えるくらいには、親しかった。
二人だけで初めて遊びにいったのは、それからしばらく後。
親しくなればなるほどに、レイちゃんの隠している本音が見えた。明け透けなくらいに。それでも偽ろうとするのを無視して私はそれに触れた。レイちゃんは素直に頷かなかったけれど、私の手を振り払うことは決してなかった。
初めて遊びに行ったのは映画館だった。私が観たかった映画を強引に誘ったんだ、テスト明けに。あーだこーだ他の人に言われるのが面倒だったから、学校で別れて現地集合して観た。初め観に行ったのはエンターテイメントでドーンバーンボーンな映画で、まあそれなりに楽しんだ後一緒にご飯を食べた。
それから何度か映画には行ってて、最近だとちょっと意地悪したくて、ホラー映画を観た。初めはあまりにも怖がるのが面白かったのだけれど、途中から可哀想に思えて、レイちゃんの手を握って観た。
無理矢理外に連れ出した室内のペットみたいに震えるし、いちいちドッキリする場面では、私の手は私の腕で身体に繋がっているのを忘れたて胸元に引き寄せたりするもんだから、少し悪いことをしたかもなぁ、と思いつつも、なんだかんだいって楽しんでくれたみたいで安心した。
二人でカラオケに行った、もとい連れて行った時のこと。
初めに私が入れて、次にレイちゃんは何を入れるのかなあと考えながら歌っていたんだけれど、レイちゃんはデンモクを弄くりはするものの、曲を入れないで私の曲は終わってしまった。私は氷抜きのオレンジジュースを飲みながら待っていたのだけれど、それでもなかなか入れようとしなくて。
「入れないの?」
「……歌は下手だ」
「でも音楽は聴くでしょ?」
「ああ」
「どんなの聴く?」
そう言ってデンモクを取り上げる。運良く、よく知ったアーティストのページだった。一番人気の曲を選んで、
「これとか知ってる?」
と言うと頷くので、私はそのままそれを入れる。
「私も歌うから、歌えるとこでもいいから歌いなよ」
前奏は流れ始めていて、歌い始めを待つ。歌い慣れた曲ではなかったけれど、割とよく聴いたことのある曲だった。
歌い出しは私の声だけ。それから、追うようにしてレイちゃんの声。小さい声はスピーカから流れるメロディに飲まれてほとんど聞こえないけれど、彼女のハスキーな声は大人びた曲調によく合っていた。横目で見なくても、恐る恐る歌うレイちゃんの姿が浮かんで、私は少し声を小さくした。
「上手いじゃん、もっと自信持って歌えばいいのに」
と間奏で言う。
「そんなことない」
小さい声、少し俯き気味にそう返したけれど、間奏後の歌い出しは完璧なタイミング。
それから、一人でも歌えるようになるまで、あまり時間は掛からなかった。
……。
『今までありがとう。何も言わずに出て行ってすまなかった』
届いたメールはレイちゃんからで。絵文字もないシンプルな文面。
珍しく、複数行に渡る改行があって。

『さようなら』

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#07

身体が熱い。
経験上、症状は日々僅かなスピードで進行するが、時折発作的に急進行し、どちらかといえば後者の進行が主として、身体を蝕んでいくようだった。これは読んだ論文にも書いてあったことで、大体一週間くらいの間隔で起き、発症が発覚する一回目を含めて4回行われるらしい。4回に症状は最終段階に達し、以降進行を止める――
どんな大病だって、いずれ進行は止まる。つまりは、そういうことだ。
私は既に3回経験しており、そして明け方、私は最後の発作を感じ取った。発作の数時間前から起きる急激な発熱が分かりやすい兆しだった。それ以外にも、得体のしれない高揚感、血圧の上昇等の症状がある。
そもそもは死ぬつもりだった。遺書はパソコンに残してある。症状について知りうることを述べ、それに対して死ぬことを決めた旨を。それを書いたのは大体一週間くらい前。症状が最終段階に至る前の発作が来たら、そのまま自殺を決行するつもりだった。出来るだけ迷惑の掛からないよう手段は考えてあった。
なのに何故か私は、木漏れ日差す林の中を歩いていた。
ハイキングコースを途中まで歩き、それから脇道に逸れて山の深くへ進む。芳しくない体調、全く整理されていない地面に、歩みは不確かで遅い。それでも、奥へと。人目につかない奥へと。
まるで逃げているかのように。
何から?
それ以上に――何故死なない?
死ぬつもりだったのなら、何かから逃げる必要なんて、ありやしないのに。
死んだ後の世界など、幕の降りた舞台の裏。知る由もない。
なら、何故?
そんな自問自答は、全く意味のない反復の思考。頭が焦燥していて、意味もなく言葉を繰る空回しみたいなもの。そう把握出来る冷静さはあっても、そうせずにはいられない。貧乏揺すりに近い。くるくると回る風量計みたいに、そのスピードで誰かが焦燥の度合いを測っているのかもしれない。
絶望なんてなかった。私は孤独じゃなかった。自分の逃げ道から、徐々に狭く窮屈になっていく逃げ道から、外れることを知った。人に触れて良いことを、体温を、知った。
だから、死ぬ必要なんてないことを、知った。
けれど。
この変わりゆく姿を、千代子には見られたくなかった。この醜い姿を、怪物と蔑まれたら、と少しでも考えただけで、全てを明かす余地なんてなかった。千代子を信じていないというわけじゃない、ただ私は、自分を信じられないのだ。結局私は、逃げることしか出来なくて。でも、得たばかりのものを、こんなことで失うくらいなら、逃げてしまった方がはるかにマシだった。
心臓の鼓動が早い。
血圧は高まり、こめかみに血管の躍動を感じる。
酷い頭痛。
汗が止まらない。
涙が止まらない。
木で身体を押さえて、立ち止まる。
呼吸はずっと荒いまま。
そして私は藪の中に腰を下ろす。木を背もたれにし、少しでも火照る体を冷まそうと、息をならす。しばらくしてから、私は手袋を外し、マフラーを取り、コートを脱いだ。長袖のシャツの上からでさえ、毛皮により輪郭は人から逸脱しているし、その袖からは黒い毛がはみ出ている。
さようなら。
いや。
まだ、まだ少しだけ時間がある。もう少しだけ、私でいさせて。そうしたら、もう、良いから。
しかし、良かった、と思う。親の猛反対を押し切って、こっちの方で一人暮しをして。
才能があるということは、決してそれだけで恵まれている、というわけではない。そういった能力は、一つの特徴でしかない。それが顕著であればあるほど、それはジグソーパズルの四隅みたいに、当てはまる場所が決まってしまう。
試合で打ち負かした相手が見せる悔し涙を、私は忘れることが出来ないでいる。まるで彼女らの努力を、思いを否定してしまったような感覚。当時の私はそれを、屠殺に似た感覚で捉えていた。今でも間違いではないと思う。当然私も、実力相応の努力をし、それ故の勝利なのだけれど、その全てを裏付けていたのは、単なる義務感だったから。
私は全てを捨てるしか、それから逃れることは出来なかった。結局、こっちの方に来たって、私はまた別の優秀さを身に纏うしか出来なかったけれど。
けれど、私は千代子に会えただけで、十分だった。
初めて千代子を見たのは、クラスのどんな子とも親しげに話している姿。その時はただのクラスメートにしか見えなかった。いつも喋っている印象がある。授業中にもよく怒られていたけれど、全く反省していないようだった。私には何でも話す彼女のオープンな態度が、羨ましいと思っていたし、一方では、大した苦労もないのだろう、と最低な考え方で見てしまっていた。
けれど、話を聞きかじっている間に、彼女との接点を重ねる間に、それは間違いだと気付いた。彼女の饒舌さに一見気付きづらいのだけれど、彼女は自分を晒してなどいなかった。積み上げた言葉の山に姿を隠して、強固なセキュリティを敷いているのだと気付いた。表層の感情は即座にアウトプットする傍ら、その奥に秘めてる背景や、一人でいるときの休日の過ごし方を、彼女は微塵にすら明かすことなどなかった。
きっとそれは、みんな気付いていたと思う。気付かせていたのだ、とも思う。表面上はフレンドリィだから、あえて厄介を掘り起こすような真似なんて誰もしなかったし、それが当たり前だと振舞う彼女に、隙など決してなかった。
だから私は、彼女に話しかけることが出来たのだろう。彼女が私に何も期待などしていないことを知っていたから。彼女の振るまいが仮面であるなら、それを被る理由なんて、諦めか謀略しかありえないのを知っていたから。
私と千代子の関係は、そんな、打算的な優しさから始まった。
なんて言ってしまうとつまらないかもしれない、けれど、それでも良かった。
私はいつも理由を求めていたけれど、全ては些末。
私は、千代子に会えて良かった。
ありがとう。
……別れのメールを送ったけれど、最後に声が聞きたい。余計なことを言ってしまうかもしれない、なんて思いながらも、私は携帯電話を取り、アドレス帳をスクロールしていた。
嗚咽、乱れた呼吸を正してから、通話ボタンを押す。
発信音。その間に、一体何を考えたろう。
躊躇、後悔、羨望? それらのログは全て、千代子の声一つで消失した。
「レイちゃん!」
突風が突き抜けた。枝を揺らし、葉を散らし、尚も勢いを残したその風は、私を背もたれの幹に押しつけて、私にその声を叩き付ける。
発信音は絶えない。
携帯の発信音はまだ、鳴り響いている。
そして風の後にさえ葉をかき乱す音は、何よりも信じがたい光景を連れて、私の方へと駆けてくる。全ての理解と時計の針を置去りにしたまま、ただ現実として――
「……千代子?」
「何でこんなところまでほっつき歩いてるの! それも黙って! 朝っぱらから! 電車代は掛かるし、レイちゃんはいいかもしれないけど、私は制服のまんまだから葉っぱで脚切るし、汚れるし、追いかける身にもなってよね!」
まくし立てるように叫ぶ千代子の言葉を受けて、ようやく理解が追いつき始める。既に感覚は全てを悟っていて、目から溢れたままの涙は違う色をしていた。言葉を返そうと唾を飲み込んでいたし、隠したばかりの嗚咽は既にのさばっている。
「何で……」
口からこぼれ落ちたのは、そんなどうでも良い疑問符。
「それを聞きたいのは私の方! 何で――」
真っ直ぐ私の見つめる目線は、その無駄をあっさりと切り捨てる。
「……ううん、とにかく、一緒に帰ろう?」
悲しいくらいに優しい言葉。
しかし置去りだった時計の針は、再び、動き出す。
残酷に。
千代子はいつも通りの愛らしい笑顔で、こちらへと歩みを進める。
私は口を開く。
残酷に。
「来るな!」
故に3メートルは縮まない。その空間を、ただざわめきだけが通り過ぎる。
不理解に張り付いた千代子の表情が、私の心にカミソリを当てる。求める気持ちが、内側から手を伸ばして心室の壁を貫こうとする。
それでも、もう、遅い。
熱い。
頭が痛い。
息は苦しくて。
涙は溢れつつける。
「お願い、お願いだから」
目眩に飲まれそうになりながらも、言葉を探し探して口にする。
幸いなのは、余計な事を言わないで済むこと。
「私の、前から」
息はいくら吸っても足りなくて、まともに喋ることさえ許してくれない。
だから私は、もう、終わらせることが出来る。
「……いなくなって」
千代子は私の目を見つめていた。混濁した視界にその鋭利さだけが残光を振りまいて煌めいて、それでも私は態度を変えやしなかった。この3メートルの空間は凍てついて、不可視のガラスに埋め尽くされる。
霞んだ眼だって、睨み付けるのには十分役に立つ。
全てを振り切ることが出来るなら、臍の緒のように切り裂いてしまえ。
血は流れる。
でもそれは、代償。
四肢が痙攣し始める。食いしばった歯は口の奥でカチカチと音を鳴らす。
千代子は振り返って一歩。
その姿、足音、残り香が目に焼き付く。涙にさえ滲まない。
私は今一度、震え上がった声帯で戒めて。
「――さようなら」
返事はない。
また一歩。
そして始まる発作。その始まりは、雪坂怜の、レイちゃんの、最期。
心臓を打つ強烈な一撃。
悲しい果てかも知れないけれど、それが宿命。
病魔、あるいは死を前にして、人の思いは脆く。
それでも、私は幸せだった。
千代子に会えて、千代子が私を追っかけてくれて。この結末を知っても尚、もう一度歩めるならばもう一度。歩めと言うのならば何度でも。千代子のお陰で私は生きてこれた。息して来られた。求めていたものを、求めた以上のものを手に入れた。それだけが私の生きている意味だった。
だから、私は幸せだった。
じゃあ、千代子は?
脈動。
千代子は、私に会えて幸せだった?
この結末がそれらの代償だとしても、それを許容できる?
その質問に返答はない。
当然だ、口にしてなどいない。
それでも分かる。尋ねなくても、その答えは。私に向けられた背を見れば分かる。
時は止められない、だが細胞を過ぎる電流は、時よりも早い。
……私の、バカ。
「待って!」
さよならなんて嘘。
いなくなってなんて間違い。
千代子は振り返り。
私の手は黒毛に蝕まれる。貪欲な闇に沈むが如く。
「……行かないで」
そう願うのは、何も千代子を哀れんだからではない。
彼女の見せた悲しみよりも、怖い物なんて無かったから。
それでも、怖いものは怖い。私は臆病者だ。
けれど。
私は。
千代子を失うことの方がずっと怖い。
喩えこの身体が人ならざる毛皮に覆われ、私の手は音を立てて形を変えていようとも。
「行かないで、千代子」
私は両手を広げる。
「……お願い。私を、抱きしめて」
3メートル弱の臆病な結界は、もはや形を成す由来さえない。藪を踏む音は破砕音。妨げるものは何も無い。妨げさせやしない。何を前にしても、私は――
「ああもう。わけ分かんないよレイちゃん?」
千代子は飛びつき、この私を抱きしめた。
私は、この手を離さない。もう嘘は、話さない。
「ごめん、ごめんなさい。本当は、怖かった。怖かったの。千代子に嫌われるのが。こんな身体じゃ、気持ち悪いって思われちゃう、って。だから、だからっ……!」
身体を歪ませるその感覚以上に、千代子の体温と抱擁が私を支配した。こうしているだけで満たされた。落ち着いて、安心できた。ずっと、待ちわびてきたものみたいに。大丈夫、大丈夫と繰り返す千代子の言葉は、まるで魔法の言葉。
「でも、もう……、人間じゃ、ないの。見てよ、ほら、ね? そういう、病気なの」
そうして広げようとした手に、もはや指など無く。代わりに得たのは緩衝のための器官。言わば肉球だ。いずれにせよ、人の持ちうるものではない。
「そんなこと、どうだっていいじゃない」
下着の中で生えかけの尻尾が急成長し、のたうっている。飽和して窮屈に下半身を圧迫したけれど、脚と下着の隙間から頭を出したのか、それで僅かに苦しさは無くなる。
毛皮はもう私の首を這い上がってきて。
「あ、ああ、もう、千代――」
骨格の改変。姿勢を保てない。顎の骨さえ狂わせて、私は喋る術さえ失う。言葉にならない呻き声だけが漏れて、しかし喋るのをやめてもそこには嗚咽だけが残る。
全く、惨めなものかもしれない。けれど実のところ、そんなことは僅かにも思ってはいない。あるとするならば、こんな姿を千代子に見せているという恥ずかしさくらい。見てよ、なんて言ったけれど、本当は千代子の目を覆いたくてたまらなかった。
それでも千代子は私を捉えて放さない。時折、まるで私の存在を確認するかのように腕が私の背を撫でる。それだけで私は肯定された気がして、だから涙だって止まりやしないのだ。
骨格の変化によって、私の体格は小さいものへと変化していく。既に私は千代子を抱きしめるには腕の尺が足らない、それ以上に腕部と胴体への接合が変化し、思うように広げることさえままならなくなっていた。まるで幼子みたいに、その両腕の中、千代子にしがみついていることしか出来ないでいた。
変化前後で大きく体格、体重が異なるのは、恐らく変化に膨大なエネルギィを要するからであり、故に適切な体格差のない生物に変化することはない、という淡々とした論文の記述を想起する。病院に行こうとも思ったが、思えばきっとモルモット扱いだったろう。
冷たい医療器具なんてぞっとしない。そんなステンレスのメスで切開なんて出来やしないなんて知りやしなかったけれど、全く、あの頃の投げやりな憂鬱に助けられるとはね。
全身のそこかしこ、まるで溶かして捏ねられてるみたいな違和感を覚えていたが、初めて眼球に異変を覚える。目を開けていられなくなって、しかたなしに閉じると、瞼の裏から触られている違和感を覚える上、全身での革変がより顕著に感じられた。
ずるり、と履いていたものが抜け落ちるのが分かる。今や私は千代子に抱きかかえるようにしていた。こんな状態で、一人で立ってきた、独りであろうとして来たなんて悪い冗談だ。先ほどまで肩の上に頭を載せ、千代子と交差していたけれど、今じゃ首もとで頭を縮め込ましている。そうすると、何だか、落ち着いた。
収束する。
変化も、私達も。
私が身を起こし、両腕に抱かれたまま千代子を見上げると、千代子もこちらを見た。赤色が極端に欠落した視界でも、千代子は千代子のままで。千代子が私を見て微笑んでくれる以上、私も、私のまま。
「じゃ、帰ろうか?」
私は、ニャア、と一鳴きして、頷いた。
千代子は、いい匂いがした。

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#08

そのままじゃ電車に乗れないから、レイちゃんは鞄に隠れてもらって、ひとまずレイちゃんちに向かった。駅に着いてからは、レイちゃんの自転車で、レイちゃんには前のカゴに乗って貰った。
「他の人の自転車ってさ、かなり乗りづらいよね」
なんて。レイちゃんは可愛らしい声で鳴いて返事をする。
マンションに着いて、レイちゃんは私の足下をちょこちょこと歩いた。部屋に着くと、まるで猫みたいに俊敏な動きで、パソコンのデスクへ向かう。小さな前足で電源をつける。しばらくして立ち上がると、器用にマウスを動かして、なにやらややこしい文章を見せる。別にマウスでじゃれているわけじゃなくて、どうやら、その文章が現状に対する説明らしい。よく分かんないけれど、これがそういう病気で、もう元には多分戻らないってのは分かった。
それから、ワープロのソフトを起動させると、ゆっくりながらもキーボードを両足で叩いて、どうやら私宛に文章を書いているようだった。
『この事は、みんなに言わないで欲しい。だが、失踪者扱いになっては迷惑が掛かるので、実家の方に、今見せたファイルを印刷した上で、私が保管しておいた発症段階別の体毛を――』
なんて、生真面目に画面越しで話すこの黒猫は、やっぱりレイちゃんなんだなあ、と思うと、どうしようもなく可愛く思えて、説明途中に抱き上げ、そのままベッドで横になる。
「そんな事は後にして、さ。これからのこと」
前脚の付け根で持ち上げて、ぶらりとよく伸びる身体を面白いなあ、なんて思いつつ、話す。ダメだダメだ、真剣な話なんだけれども。でも、そんなくりくりな目をされちゃ、ねぇ? ふかふかしているしさ。
まあ、それは置いておいて。
「私んちに住まない?」
そう聞くと、細い瞳孔はパーッと見開いて、しっぽはピクリと跳ねる。そして、何かを訴えかけるかのようにみゃあみゃあ鳴くんだけれど、きっとレイちゃんのことだから、なんか面倒なことでも喋ってるんだろう。
「猫の言葉なんてわかりませーん。嫌なの? 嫌なら別にいいんだよ?」
なんて言うと、黙って、小刻みに左右へ振る。だから、もう一回抱きしめて、素敵な耳の乗っかった小さい頭に、頬を当てる。温かい。
「じゃ、決定。後で、私んちに持って帰りたいもの教えてね。今はとりあえず……寝よう?」
そのまま8時間。気付いた時は夕方だった。

それから、四ヶ月ほど経って。
今ではもうすっかり、私んちに住み着いている。私が学校に行っている間は、私の部屋でノートパソコンを弄っていたり、私に図書館で借りてこさせた本を読んだりしている。小説を書いたりもしてるみたいだった。
一日の睡眠時間は猫らしい長さで、よく私のベッドで丸くなってる。自分ちから持ってきたぬいぐるみに寄り添うように寝るのがお気に入りみたい。レイちゃんの家から持ってきたものは他にほとんど無くて、というかあの後、クローゼットから急ごしらえに隠したと思われるぬいぐるみがたくさん出てきた時はびっくりした。
そういえば一回、冗談で『我が輩は猫である』を持ってったら怒られたことがある。その癖、レイちゃんが密かにつけてる日記の出だしに、私は猫である、名前は怜。なんて冗談めいて書いてるんだから。私がそれを知っているのは、一応秘密。別に盗み読んだわけじゃないよ。
初めはほとんど表には出なかったし、服を着ないでいることが落ち着かないのか、タオルケットに隠れているばかりだったんだけれど、最近は一人で表に出るようになったし、猫として社会に溶け込み始めているようだった。外に出たときは、自分で足を濡らしてからマットで拭き、上がるようにしているらしい。律儀な猫だと思う。
足を拭く為のマットは、首輪と一緒にネットの通販で届いてきたもの。首輪はレイちゃんのする唯一のオシャレだからか、可愛いものをいくつか持っている。度々、気分でか首輪を付け替えるよう頼まれる。私が注文したわけではなく、レイちゃんが代引きで頼んだものだった。
お金はレイちゃんが持参してきたお小遣いで支払ったみたいで、おかしいことに荷物の受け取りもレイちゃんが出たらしかった。そこまでは良かったのだけれど、届いた箱を開けられなくて、結局私が帰るまで中身を拝むことは出来なかったのを悔しがっていた。
ご飯は、うちのお母さんが妙にレイちゃんのことを気に入ったみたいで、レイちゃんの分も作ってくれる。ちゃんと調べたみたいで、薄ーい味付けにしてあるみたいだった。初めの方はカリカリしたペットフードだとか、缶詰とかも食べさせたのだけれど、やっぱり、かわいそうっていうか。
ちなみにお母さんは、本を読む珍しい猫だ、と面白がってた。まあお母さんなりに思うところはあるんだろうけれど、今の所ノーコメント。思いっきりレイちゃんって呼んでるしね。
「ねえ、これってどういうこと?」
今は、レイちゃんに宿題を教えてもらっているところ。机の上に乗っかって、教科書の大事なところを開いてくれたり、パソコンで文字を打って教えてくれたりする。本当は私は宿題なんてするキャラじゃないんだけれど、あんまり遊んでるとレイちゃんが妙に私のことを心配するし、レイちゃんに構うついでにやってる。テスト勉強もするようになって、やったら成績が良くなったりして。まあ悪い気分じゃないけど、この調子が長く続くといいねえ。
学校の方では、レイちゃんは事故死扱いでクラスのみんなに伝えられた。事についてはレイちゃんの親を介して学校に伝わったのだけれど、レイちゃんが添えた文章に従ってそう処理されたみたい。
初め知らされた時は色々あった。何人も泣いてたし、以前レイちゃんに告白した子は教室から飛び出たりして。事実を知っているジュンと私は、悲しそうなフリをしてその場を凌いだ。流石にヘラヘラして、周りを敵に回すなんて怖いもんね。
ジュンは、あの日、私が到着するまでちゃんと、レイちゃんにストーカーしててくれた。私とバトンタッチした後は、一人家に帰って、散々泣いたらしい。レイちゃんが猫になってしまったことについては、私の部屋にジュンを入れた時にちょうどレイちゃんはパソコンでニュースを見ていて、そのお陰ですぐに納得してくれた。流石に、もうレイちゃんと付き合うのは諦めたみたい。
あと、一度レイちゃんの両親と挨拶した。一応、レイちゃんを預けておく手前、そのまま、というわけにはいかないのだろう。話によると、ああ見えて、レイちゃんはほとんど家出する形で一人暮らしを始めたらしい。レイちゃんの癖に思い切ったことをするなあ、と思う。両親は良さそうな人に見えたけれど、そういう経緯もあるから、もうしばらくお家においてやって欲しい、だって。
家賃代わりに、とかなり多めなお小遣いを貰ったけれど、それはほとんどレイちゃん専用になりつつある新しいノートパソコン代に充てた。それとは別に大金を渡されたけど、それは予防注射代を初めとした医療費として、と念を押して渡されたもので、やはり親としてレイちゃんはやっぱり、大事な娘なのだろう。もちろん、ちゃんと言われたとおりに使ってる。
まあ、レイちゃんは楽しそうだし、私も楽しいし、これで良かったのかもね。
「終わったー」
悪い子はもう寝る時間。寝る準備はもう済んでるから、速攻ベッドに飛び込む。
「おいで?」
と声を掛けると、机からぴょん、と身軽にジャンプ。まるでそこが私の定位置、っていうみたいに、横向きで横たわる私の胸元に潜り込む。前よりも甘えん坊になったのは、きっと猫になったせいじゃないと思う。
リモコンで電気を消して。
ま、色々あったけれど。
「おやすみ、レイちゃん」

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作成日:2009/09/08;更新日:2009/09/11
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遠すぎて当たらない/Too_Far_and_No_Harm
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