Inhuman_Lovesongs

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#01:Even_if_we_couldn't_understand_what_each_other_mean,

 緩やかなせせらぎに、鳥の鳴き声。
 天気の良い朝で、洗濯をしているだけでも気持ちが良い。水はまだ少し冷たいけれど、頭のボーっとするような春の暖かさには、丁度いいくらい。
 洗濯を終えて、パンと張ったシーツを干す。以前ならそういった光景を、私はぼんやりと窓から眺めていたのだけれど、今日になっては私自身が家事を担うようになった。料理だって、掃除だってしている。慣れないことばかりだけれども、どれもが新鮮だったし、それ以上に充実した日々に、私は満足していた。
 確かに、過去のことを思い出して、切なくなることだってある。失ったものだってあまりにも多いし、惜しむべき多くのものはもう元には戻らない。そう振り返るのは、多分私だけじゃないはずだろうけども、今更後悔したって仕方が無いのだ、とお互い頷きあってれば、それで良かった。
「アトリーシャ様」空になった籠を持って、家の中に戻ろうとしたところ、そう呼びかける声がする。
 兵士だった。顔見知りの、ワーフォールの兵士。いつも通り馬車を引いて、年の割に幼げな笑顔を振りまいている。私がここに住み始めてからずっとお世話になっているが、彼の名前はまだ聞いたことがない。
 ――こんにちは。
「こんにちは。今月分の食料を、お届けに参りました」と、ハキハキとした返事をして、彼は馬車からいくつかの木箱や樽を持ってきては、決められた場所に置く。
初めのうちは私も手伝おうとしたのだが、それを申し出る、もしくは勝手に手伝おうとすれば、「いえ、僕がやります」とか「これも仕事のうちなんで」とか、「こういうのも訓練になるんです」とか言って、その余地を与えない。
 彼なりの善意なのだろうけども、今ではこういった援助を受けるだけでも後ろめたかったので、その善意に対して逆に申し訳ない、という思いをする。
 私は何もかも捨てて、逃げ出したのだから。
「今日は手紙も来ていますよ」
 全ての作業を終えると、彼はそう言って封筒を手渡し、別れの挨拶をして去っていった。
 ――いつもありがとうございます、と私はお辞儀する。
 それに対して「いいえ、当然のことです。それでは」と返事するのが、既に二人の仲での決められた挨拶になっていた。
 手紙は、ワーフォールの皇帝からだった。うまくやっているか、という書き出しは相変わらずで、その後にはパーティへのお誘い。この類の招待はもう何度も受けていて、そのたびに断ってきた。援助を受けているのだから出席すべきだ、とは思うのだけれど、既に自分は大手を振って人前に出られるような姿ではないからという理由が、足枷になっていた。
 今の私はもう、人間ではない。人と獣を足して2で割ったような生物、言うなれば獣人だった。そんな化け物染みた姿を人目に晒すなんて、耐え難いことだった。事情を知っているワーフォールの皇帝と我が国の大臣、直々の任務で物資の輸送を行っているあの兵士以外の人間には、まだ一度もその姿を見せたことは無い。
 勿論ワーフォールの皇帝は、私の姿について断りを入れておけば、皇帝の知人ばかりで開かれたパーティであるから、侮蔑をうけることはない、と言うし、確かにその通りかも知れない。だが、私にはもう一つ、パーティに出ない理由があった。
――おかえり、レイン
 籠を片付け、読み終えた手紙を引き出しに閉まってから、ふと一息ついて庭先で休んでいれば、山頂の方から飛来してくるレインの姿。捕らえた獲物を入れるための袋を一杯にして、今では野生のグリフォンとはなんら変わりない、自然な動作で着陸する。
――ただいま
 一鳴きするレインは、獲物を一旦地面に置き、血塗れた爪や嘴を川の水で濯いでから、私に飛び掛るようにして抱きしめる。私もそれを全身で受け止めるようにして、ギュッと抱き返す。レインの首の後ろで、もう一度おかえり、と囁けば、レインも小さな声で返事をする。
 一度交差させた首を戻して、今度は口付けをする。といっても、人間同士のする口付けとは程遠い。レインは、私の頭を噛み砕くことも出来るほどの大きな嘴を持っているから、口先でキスをする分にはまだいいけれど、恋人同士のする熱いキスには別のやり方がある。傍から見れば襲われているようにも見えるし、動作としては親鳥が雛鳥に、餌を口移しするのに近いのだけれど。
 レインは嘴を最大限に開き、首を傾ける。大きな口。
 私はそれと反対に傾けて、嘴に挟まるようにして口を、というよりも顔を合わせる。生暖かい吐息と、獣の臭い。糸引く唾液に、レインの太い舌。
 それを飲み込まんばかりに、咥えるのだ。咥えて、それ至るところを私の舌で、まさぐるように弄ぶ。絡めたり、押し付けるように舐めたり。レインもその大きな舌で、私の口中を、まるで犯すように動き回る。
 レインの嘴の中、いやらしい音が篭って聞こえる。時々喘ぎ声が聞こえて、私はそれが愛しくて、愛しくて堪らなくなって、抱擁をより強く、その毛皮で覆われた、熱い体を感じたくて、強く、強く抱きしめて、舌と舌での交感も、もっと激しくなって――
 私がパーティに出ない理由、それはレインに他ならない。流石に、中身はともかくとして、完全にモンスターになってしまったレインを、パーティに出すことは出来ないのだ。一緒に出れない以上、レインを一人にしたくなかったし、離れたくもなかった。何より、レインだけが出れない、という待遇が、レインのことを傷付けてしまいそうで、怖かった。
 家の中に入り、昼食の準備をする。昨日の夕飯だった残り物のポトフを器に注ぎ、ライ麦のパンを主食にして食べる。レインはすぐ隣でそれを、ただ眺めている。
 レインの分は用意していない。
 する必要が無い、もとい、私には用意することが出来なかった。この生活を始めてから、初めて料理を勉強した。不慣れながら、簡単なレシピを見つつ、私は料理して食べている。勿論、自分が一所懸命に作った料理を、レインに食べてもらえたらきっと幸せだろう。今だって、そうしたいと思っている。
 でも出来なかった。肉食になってしまったレインの身体は血に餓えていて、血生臭い生の肉しか食べれなくなっていた。恐らく食べられないことは無いだろうけども、決して舌には合わず、消化されずに排泄されてしまうはずだ。レインは私の食べる分の肉を狩るだけでなく、自分の血の乾きを満たすために、毎日森へと潜っているのだ。
 それでも一緒にご飯を食べたい、狩った動物をその場で食べないで、ここで食べればいい、と提案したことがあるのだが、「自分が、まだ温かいままの肉を、一心不乱に食い荒らしている姿なんて見せられない」と、嘴で地面に書いた文字を涙で濡らして拒まれた。
 レインは私の提案に狼狽していて、私がいくら慰めても嗚咽は止まず、乱れた文字で「すまない」と書き加える。酷いことをしてしまったと私は後悔した。きっと、レインも出来ればそうしたかったに違いないのだと、自分の愚かさを心から反省した。そしてレインの取り乱しように動揺した私は、ただ謝りながら泣くことしか出来ず、その晩はそのまま二人とも啼泣しながら、潰れるように眠り落ちた。
 そういったことは、他にも何度かあった。いくら愛し合っていても、姿形が違う、ということは、大きな隔たりをもたらしていた。ましてやレインは人間であっただけに、そして自分の無力さ故にこうなってしまったと思いつめているだけに、その差は深刻だった。
 もっとも、だからこそ二人の絆は深まっていくのだと、私は思っているし、その身体の違い、というのも、僅かながらに埋まりつつ、あった。

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#02:even_if_the_change_injured_us

 あの夜の後、私たちはあの怪物の声で目覚めた。
「おはようございます。もう朝ですわ」と、皮肉っぽく、明日の朝に出れる、という言質を示すのを目的に、私たちを起こしに現れた。黒い素肌に、真っ赤な角のある姿だったが、あの禍々しい触手は生えておらず、一本の尻尾だけがうねうねしていた。
 しかし私もレインも、半分夢か現かのまま、目を覚ましてもそのままでいた。恐らくあの怪物が起こさなければ、そのまま昼過ぎまで眠ってだろう。それぐらい、二人は深い眠りについていた。
 レインはその眠気のせいか、もう怪物に対しての悪意は殺がれたのかは知らないが、その怪物に襲い掛かるようなことはせず、そのまままどろんでいる自分らに向けた言葉も、何事もなく聞いていた。
「一応お約束どおり、朝まで、ということでこうして起こしましたが、このままこの館に滞在なさっても構いません。もしお目覚めになるのでしたら、こちらで朝食を用意しましょう」
 私は自分が全裸であるのを忘れたまま、レインの背中から降りる。レインの精液が足を伝わっていく感覚に気がついてから、自分が全裸だ、ということに気付いて、咄嗟に隠すべきところを隠した。
「ふふ、可愛い子ね。大丈夫、この館には私達以外誰もいませんの。だから、隠す必要はありませんわ」と、全身を嘗め回すような妖艶な視線に若干の危機感を抱き、数歩後ずさりする。確かにここにいる全員、揃いも揃って服を着ていないのだけれど、私以外の二人は毛皮のあるレインと、生粋のモンスター。服を着ないことの意味が違う。
 そんなことを気に掛けられるほどに頭は冴え始めていて、昨晩のことを初めとして、現状についても大体は把握できた。
 ふと気になって自分の身体を眺めてみるも、変化は全く見られない。そのときは私も、レインの精液では姿は変わらないのだと思っていた。
「ホールを出て廊下を真っ直ぐ行くと、エントランスに出ます。その向かいの、一番右の両開きの扉が食堂です。貴女のナイト様が起きたら、一緒にいらしてください」と言って、私に微笑みかける。「貴女達は私の大切なお客様。ちゃんと、私なりに、おもてなしいたしますから」
 そう言い残すと、彼女はふっ、と姿を消した。残された私は、半開きの目を小さく瞬きして、地面にへたり込むようにしているレインの身体を背もたれにするように、隣に座った。完全に寝ぼけているようで、ごにゃごにゃと言葉になっていない何かを喋っている。本人は普通に喋っているつもりなのだろうけど。
 うん、うん、と、言い表しようのない暖かな感情を覚えて、私はそれに相槌を打った。そのままレインが目を覚ますまで、そんな緩やかなやり取りを繰り返していると、次第に自分もレインに憑いた睡魔に捕らわれていた。
 それで、もう一度気がついた頃には結局お昼になっていた。そのときはレインが先に起きていて、目覚めて初めに目へ飛び込んできたのは、大きな嘴だった。私の顔を覗き込んでいたらしいけど、私が起きた途端、レインは顔を反らしてしまった。
 きっと恥ずかしかったのだろう、私は服を着ていなかったし、自分は寝て醒めてみても人外の身体に、声を発してみれば鳥の鳴き声。起きてからも落ち着かない素振りをずっと続けていた。
 起こさなければいけないのだけれど、姫は裸だし、喋れないし――と、レインが戸惑っていたのかと思うと、そんなレインが可愛くて、私はあえて意地悪した。
 視線を逸らしたままでいるレインに、急に抱きついた。
 レインはビクッ、と身体を跳ねさせて、二、三首を揺する。私はそれでも強く抱きしめたまま、(今思えばレインは息が出来なくて苦しかったのかもしれない)
「私が寝てるうちに、エッチなことしたんでしょ」と言えば、
 違う、とでも言わんばかりに首を大きく振って、じたばたと四肢を動かす。それでも私は首にしがみ付いたまま。思ったとおりの行動で、やっぱりそんなレインがいじらしい。
「不埒。騎士だった者が、しかもよりによって皇女に、そんないやらしいことをするなんて――」と続けると、今度は動きを止め、全身の力が抜けたかのようにしゅんとしてしまった。
 流石にかわいそうになって、私はそのまま背中の両翼の間に滑り込む。左腕は首に掛けたまま、右腕でその毛並みを確かめるように、そっと撫でてあげる。
「ごめん、冗談よレイン。……グリフォンになっても、可愛いよ」
 僅かに沈黙を経て、
「クェ……」と、小さな声で、返事をした。
それから、「好き」「大好き」「愛してる」という甘い、触れてしまえば解けてなくなってしまいそうな言葉を、何度も何度も確かめるように、それが時間を止めて、永遠のものとする呪文であるかのように、囁く。

 姫の言葉一つ一つに、私は返事をする。自らの意思で、この忌々しいと思っていた、人ならざる声を発していた。姫のたった一つの肯定が、私の絶望や、後悔といった負の感情を、瞬く間に打ち消していくのが、驚く程明確に分かった。
 そして返事をしながら、私は知らず知らずのうちに涙を流していた。喋れないのに可笑しい話ではあるが、返すべき言葉も見つからないまま、ただそうするばかりで。溢れんばかりの感情に、頭がじん、としたままで。
 こんな醜い姿になってしまった自分を、姫は受け入れてくださっている。剣も持てず、言葉も発せず、人には魔物だと恐れられて然るべきこの姿を、姫は受け入れてくださったのだ。姿を変えられてから、姫と交わっている最中でさえ、ずっとそれが不安だった。人間であった時でさえ、関係が壊れてしまわないかと恐れていたのに、こんな姿では、尚更のことだと思っていた。なのに。
 私は幸せだ。こんなことがあっていいのか、と不安になるぐらいに、幸せだ。
 「そろそろ行こうか。朝ご飯を、ってもうお昼なんだけど、用意してくれるらしいの」
 姫はそう話を切り出し、あの魔物が食事を用意しているということと、その食堂の場所を続けて話される。確かにお腹は空いていたし、今の私には彼女を単に憎むことは出来なかった。信用に足る存在では決してないが、疑い一辺倒にするつもりもなかった。
 私は頷いた。
「じゃあまず、荷物を拾わないとね」
 姫はどうやら私から降りるつもりはないようで、私に騎乗したままでいなさる。全く構わないし、むしろそっちの方が嬉しいのだけれど――
 姫の指し示す方に歩く。昨晩よりも四つん這いに慣れて、人並みに歩くことまでは出来るようになった。走ろうと思えば走れるかもしれない。きっといずれ飛べるようにもなって、段々とグリフォンらしくなっていくのだろう。そんな推察も、今ではあまり悲観的に思わなくなった。
 荷物を嘴で拾い上げて、跨っている姫に渡した。私の武具はどうしようか、と悩んだが、長い間命を預けた戦友を、もう使えないからといってそう簡単に捨てるわけにもいかず、荷物になって姫には申し訳ないのだけども持っていくことにした。背中に色々なものが積載されていくが、人間よりも遥かに強靭であるらしいこの身体では、まるで苦にもならなかった。
 廊下やエントランスを抜ける最中、姫は城の内装を見てあれこれと述べなさる。姫自身が暮らされていた城程ではないにしろ、確かになかなかの装いである。あのホールもそうだったが、若干褪せた感じがして、逆にそれが良い雰囲気を出しているようだ。しかし見れば見るほどに、そんな城がここにあるのがおかしく思えた。
 思えばまだ、あの白樺の林から出られていないのだ。窓の外は深い霧で覆われていて様子は伺えなかったが、都合よく一晩で結界が解かれるなんてことはあるまい。下手をすれば一生ここから出られないかもしれない、という危惧もあったが、その分時間は有り余っている。姫の疲れも癒せるし、結界さえ解除すればあとはこちらのもの、私が飛べばいいのだ。姫のためなら、より獣らしく振舞うことだって、全く厭うつもりはなかった。
 食堂に着くと、すぐにあの魔物は現れた。わざとらしく恭しげな態度で、
「おはようございます。もうお昼になってしまいましたが、それだけよく眠れたようですね。食事の準備は出来ておりますので、お好きなところにお掛けなさって、お待ちください」と言う。
 姫は荷物を床に置いてから、私の背中から降り、すぐ傍の席にお座りになる。一方私は、こんな身体では椅子に座ることもままならず、姫に寄り添うようにして待機していた。見下ろす魔物の視線に不快な思いを覚えながらも、頭の中に結界についての疑問を過ぎらせる。あの魔物には人の考えを読み取る能力がある。喋れない以上、それに頼るしかなかった。
 この魔物と初めて出会った時、僅かに『遊び』だと言い漏らした。遊びで人を化け物に変えるなど、不愉快だし遊ばれる方の身にもなってほしいのだが、しかし他意は無いという事は察せる。要は本人が楽しめればいいわけだ。人語を理解する頭脳を持つような高等な魔物には、人間と敵対している者も多いが、そういったわけでもないというのは僥倖だった。
 私たちはこの魔物を十分に楽しませることが出来たのか、疑問にも答えてくれた。
「確かにこの林には、脱出を妨げる封印が施されていますわ。それについては、食事しながらお話しましょう」と言って、再度テレポートで姿を眩ませたが、十秒もしないうちにカートと共に現れた。
 食卓には既に食器が置かれていて、真ん中には布の掛けられたバスケットがある。魔物は手際よく、スープやら目玉焼きやらを配膳する。丁度二人分用意されていたが――
「貴方の分は、別に用意していますの」
 そう私に言い放つ魔物は、紅を差したかのような赤い唇を弓の形にして微笑む。咄嗟に私は身構えていて、その笑みには何らかの思惑がある、ということが頭に刷り込まれているのに気付く。
 もう一度姿を消すと、今度はより大きなカートを手に現れる。人ひとり入るぐらいの大きさだが、布が掛けられていて中の様子は伺えない。だが、薄汚れたシルクの内側から発せられる匂いは、確かに私の食欲を刺激した。刹那の思考は、確かにそれを食べ物と、私の肉体は、確かにそれが食べたいのだと、判断していた。
 しかし、匂いに対してどう思うか、と、実際にそれがどんな匂いなのか、というのは別物だ。踵を返すようにして、私の思考は警告と自制へとすりかわる。無論、私の身体がそれを求めているという認識は消えないし、それを食べ物だと認識したことは尾を引いて、私の自尊心を酷く抉り取る。
 布が取り払われると、そのカート、いや車輪とハンドルのついた檻の中身が、露になる。
 馬の死体だった。血液と泥で汚れてはいるが、白い毛並みの美しい白馬――
「ポーラ!」姫の、悲鳴のような叫び声。「ポーラなの?」
「昨晩、林の中で見つけましたの。こんな場所ですから死体の劣化は遅く、丁度いいかと思いまして」不快感を煽るようにして、魔物はそう述べる。姫の言葉に耳を傾けないふりをした、あからさまな当てつけだ。
「これが貴方の餌ですよ」
 大げさな金属音が、名状しがたい静けさを孕んでいた食堂に反響する。檻の扉が開かれ、魔物はそれを傾けると、ずるり、と力ない死体は床に落とされる。檻の底面が赤く擦れていた。一連の光景が、私たちをこの地まで運んでくれた、この白い馬は既に死体であり、生き返らないのだ、という事を強く印象付ける。
 騎士である私は、生物の死というものに身近であったが、姫はそうではない。それだけでなく、この馬は姫の愛馬であり、お互いに幼い頃からの仲だったのだ。辛い別れであったのに、乾きかけた傷口に塩を塗りこまれたような思いに違いない。姫は目を見開いたまま、視線をまるで逸らされなかった。
 だが、私は。
 私はそんな、姫の大切な愛馬に対し、強い食欲を抱いていた。
 身体が動かんと、それを今にも喰らわんと疼く。開きかけた嘴から、盛んに分泌された唾液が滴る。食べたい、食べたいと思う傍らで、私の精神はそれを抑止していた。それを喰らうことの意味、浅ましさ、意地。なにより、姫の面前でそれをすることの羞恥が、私の剣だった。
 葛藤で打ち震える体は、ゆっくりと動き出した。震えていながらも、恐ろしく滑らかな動作で、その鈎爪のある右前肢を前へと動く。口からは理由も分からない呻き声がかすかに漏れる。
「レイン!ダメよ、食べちゃダメ!お願い――」
 そう、駄目だ。食べてはいけない。食べ物ではないのだ。姫の、大事な愛馬なのだ。
 それでも私の身体は止まらない。鉄球を引きずっているように遅い動作だったが、確実に、前へ前へと進んでいた。本能が、肉を喰らわんと。
 姫の呼びかけなさる声はまだ続いている。そうだ。きちんと火葬し、お墓も立ててやらなければならない。供養して、その天に召された命を、冒涜してはならないのだ。
 理性の絆しを振り払って、私の獣は、もうそれに届かんばかりのところまで来ていた。姫は声を掛けるだけでなく、私の身体にしがみ付いていなさるのだけれど、まるでトンボの頭を刎ねるのと同じように、人の頭をももいでしまう程強靭な肉体を持つ魔物にとって、それは酷く儚い。それでも、そんな姫の抵抗が私の肉体を鈍らせたのは、ひとえに姫の存在が歯止めになったからだろう。
 しかし、それとて獣を静止させるには至らない。
 ――ああ、姫、申し訳ない……。私はもう、獣になってしまったのだ。姫の大切な愛馬を、私は、私は……!
 無常にも、私はその死体に爪を突き立てて、その薄く短い毛に覆われた皮に、鋭い嘴を刺していた。鼻腔に広がる匂いに、更に高ぶりを覚え、冷めて硬くなった肉を引き裂く感触は、より精神を滲ませた。
 姫の叫び声だけ。それ以外のものは、私の精神が自然に断ち切っていた。私はどうすることも出来ず、ふがいなさに打ちひしがれながら、本能の奴隷へと堕ちることを、甘んじて受け入れていた。

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#03:or_even_if_we_had_to_kill_you,

「問題ないかしら?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
 鏡で自分の姿を確認しながら、そう返事をする。
 昼食の後、洋服を見繕ってもらった。どれも古めかしいものばかりだけれど、物自体は良い。少し少女趣味が強い服に、お姫様、と周りから可愛がられていたときを思い出した。あの頃はお勉強と、周囲に笑顔を振りまいているだけで良かったのになぁ、なんて。
 昼食、といっても、あの後私は何も食べないでいた。お腹は空いていたが、そんな食欲はまるで無くなっていたし、動転していた。自分の気持ちを落ち着かせてから、レインの身体を拭いて、慰める必要もあった。
 今、レインはエントランスで待機している。私を怪物と二人っきりにするのを嫌そうにしつつ、渋々従っていた。出発の準備は整っていて、封印の解除も済んでいるらしい。
 ポーラのことは、仕方がないと思っている。レインが自分から進んで食べたわけじゃないのは明らかだし、グリフォンになってしまった以上、それに見合った食べ物があって、それが動物の肉であっただけのこと。それにポーラだって、もう元には戻らない。
 怪物は今一度、私の格好を確認してから、小さな宝石が一つだけついた、首飾りを取り出し、私の首に掛けた。シンプルな作りだったが、よく見てみれば非常に緻密な細工が施されていて、曰く「呪いを防ぐマジックアイテム」らしい。怪物がそんなものを持っているなんておかしな話だけれど、だからといって何か呪いが掛かっているわけでもなさそうだったから、私は再度感謝の意を述べる。
 そうしてから、怪物は「戻りましょう」とテレポートをする。瞬く間にエントランスへと戻ると、外に繋がっている両開きの、大きな扉の前で座っているレインがこちらを振り向いた。まだ気を取り戻してはいないらしく、細かい動作一つ一つにどこか力がない。「どうかしら?」と洋服を見せてみても、細い声で鳴いて、頷くだけだった。
 荷物を確認する。持ってきた分の食料と、盟友の証。レインの武具に、昼食に出されたけども食べなかったパンを数個に、補給させてもらった水。問題なさそうだ。
「じゃ、行こっか」と、私はレインの背中に、身体を這わせるように乗る。私が穿けそうなものはスカートしかなかったから、跨げないからだ。荷物を抱くように、レインの首にしがみ付くようにして、体勢を整える。来たときよりも若干薄着だが、これなら寒くはなさそうだ。
「お気をつけて」魔物はドアを押し開ける。外の冷たい空気が流れ込んでくる。館の対照的な温かさが、まるでここが夢の中であったみたいだ、と非現実感を思わせる。
「もし居場所が無くなったら、是非また戻ってきてください。そのときもまた、歓迎しましょう」と言って微笑む。
「ありがとうございます。では、さようなら」結局、良い人なのか悪い人なのか、判断はつかないままに別れを告げる。レインを酷く苦しめたのは許せなかったけれど、色々と良くはしてくれたし、何より、レインと気持ちを確かめ合うことだって、彼女の助けがなければ到底無理だっただろう。
「さようなら」
 レインはゆっくりと歩き出す。
 徐々に加速して、開け放たれた門を抜ける頃には、既に走っていた。
 人間では到底追いつけない速度で、馬ほどではなかったが、あのぎこちなさが嘘のよう。
 白樺の木立がびゅんびゅんと過ぎり、濃霧はまるで激流の如く裂かれた。
 すぐに林から飛び出して、また岩肌の露呈した山道に出た。
 
 ワーフォールへの亡命も、国家の奪還も滞りなく行われ、いくつかの武力衝突はあったにせよ、流される血も少なくて済んだ。姫が亡命なされた、ということは早い内に広まっていたようで、レナンティウスが失脚した後の、ワーフォールによる一時的な管理体制もさほど混乱を招かず、全ては順調に思えた。
 私はその間、姫に余計な面倒を煩わせたくはなかったので、人目を避けるためにワーフォールの帝都近隣の森で暮らしていた。ほぼ毎日、僅かな時間ながらも姫は私に会いに来てくださり、それだけが私を人間にしてくれるものだった。
 幸いグリフォンの身体能力と人間の頭脳があったから、食べ物には困らなかったのだけれども、野生動物を狩り、風雨に晒されたまま眠る、という生活には一向に馴染めず、むしろ馴染んでしまえばお終いだ、という一身が、そうさせずにいた。日に日に自然に動くようになる体に、私は気が狂ってしまいそうだったが、まさに姫の存在を命綱にしながら、私は本当の意味でグリフォンにならずに済んでいたのだ。
 いくら擦り切れそうになっても、現状を維持出来ているという点では、それでも私は幸せだったし、大した問題ではない。正式に姫が王位に就かれれば、こんな獣としての生活からはおさらば出来るわけだし、そもそも私は姫の家来だ。姫の都合で死ねというのならば、喜んで死ぬつもりだ。であるから、初めから私事は問題になりえない。ただ一つあるのならば、私が完全に獣となった暁に、衝動に歯止めが利かず、姫のことを食い殺してしまう、それぐらいだ。
 問題は、姫の身体に変化が起き始めた、ということだった。私が、罪深くも姫に放った精は、やはり邪な魔力を秘めていた。姫の体内に残留したそれは、じわじわと姫の身体を冒していたのだ。
 初めは僅かな変化だった。
「最近すぐにお腹が減るの」「なんか無駄毛が生えやすくて」と、それだけでは変化といえないようなもの。私もそれを、ちょっとした愚痴として聞いていたし、姫もそのようだった。
 戦争が始まってから、そんな些細な変化はより大きな変化に至っていた。元々小食だった姫と比べると、それは異常食欲とも言えるほどになっていたし、体毛だって一日処理しなければ、それがハッキリと視認出来るまでになっていた。そしてその体毛も、産毛のように柔らかいものではなく、私に生えているような、硬く身を守るための、毛皮に近かったのだ。
 私はとんでもないことをしてしまった、と今更後悔した。姫も、体毛が皮膚を覆い尽くすようになってからは、裾の長く、フードの付いたローブをお召しになるようになった。ワーフォール皇帝には相談したらしいが、元に戻す術も見つからず、頭を悩ましているらしい。
 身体の変化による深刻な問題は、何より、王位に就くことが出来ない、ということだった。人のなりをしていない、得体の知れない生物が突然現れたところで、それを姫だと認める人間がいるだろうか?なまじ奪還作戦が始まった以上、事態は一層ややこしくなっていた。
「これからどうしよう?」
剃り払うことを諦め、全身を毛皮に覆われてしまった姫は、私だけにその身体を晒しながら、泣きなさる。「ねえレイン、私はどうすればいいの?」
 変化はそれで終わりではなかった。相変わらず直立二足歩行をし、また人間の言葉を発することは出来ていらしたのだが、脚の、主に大腿から下は獣のような骨格へと変化し、頭部の形状も、日が経つごとに人らしさを失っていく。
 細長い口吻に、ピン、と立った耳、そしてお尻から生やしているふさふさとした尻尾は、どう見ても狐のものだ。それでも姫は、完全にグリフォンになってしまった私のことを思ってか、変身してしまったこと自体に対するショックを、ほとんど見せずにいらした。
 そんな気遣いに私は感謝しながらも、やはり一人辛い思いをしている姫のことを考えると、私はいても立ってもいられなかった。満月に咆哮しようと疼く体の事等とうに忘れて、自責の念に泣き明かしていた。

 ワーフォール皇帝との一ヶ月以上の話し合いによって、遂にその結果が出たらしく、私はワーフォールの兵士(姫と皇帝以外に、唯一今の私と面識のある人間だ)に、我が国の城前大広場へ出るよう命じられた。姫はローブを羽織ったままに、亡命の際に酷く傷を付けられてしまったのだ、と偽りつつ、その決定を布告するそうだ。
 私もその決定については何も知らされておらず、馬車の荷台に姿を隠したまま、その場に出席した。広場は人で溢れ返り、その雑踏や発せられる声は一体となって、どうどうと空間にこだましていた。何かの拍子で馬車の覆いが外れてしまわないか、と緊張しつつ、姫が現れるのを待った。
 ただでさえ騒々しかった民衆の声が、突然わっ、と沸騰した。私には聞こえなかったのだが、大きな銅鑼が打ち鳴らされたらしい。続いて、今度は街全体が揺れているかのように、混乱が波のように伝わってくる。姫が全身を、コートで覆い隠されているということに、人々は動揺したのだろう。
 それから、街各所各所に設置された、音声を放送する魔法媒体から姫の声が漏れ出した。遠くで増幅された姫の声も少し先行して聞こえてくる。人々は静まり返って、まるで戦を開始する合図を待っているかのようだった。
 姫は挨拶を済ませ、自分がこんな装いであることの理由と非礼に詫びながら、とうとう本題へと差し掛かった。
「私アトリーシャは、正式に王位に就かず、その全権力をワーフォールへと委託することに決定いたしました。ワーフォールはご存知我が国の盟友国であり、またその皇帝も、亡き父でもある前皇帝オルディウス九世と親交関係にありました。非常に安定した統治をされており、我が国の議会が持つ権限も維持されるという保障をされたまま、国の委託、という異例な事態にもかかわらず、受け入れてくださりました。不満のある方もいらっしゃるでしょうが、私はこれが良い結果をもたらすと核心しております。どうかご理解と、私の力不足をお許しいただければ、と思います」

 色々な、本当に色々な叫び声が聞こえてくるのを他所に、私は城の中へと戻った。
「……本当に宜しいのですか?」と、私が亡命した後、レナンティウスの圧力に耐えながらも尽力をつくしてくれていた大臣は、私にそう問いかける。私の逃げとも取れるこの決断に納得がいかないのも分かる。あれだけ、王位を継承すると息巻いていたのだ。咎めたくもなるだろう。
 ワーフォールの皇帝だって、初めは反対したし、最後まで納得はしていなかっただろう。しかし、一国を、インフラを崩すことなく手に入れることが出来るというメリットに、彼は長として賛同しざるを得なかったし、私の意志を尊重しよう、という寛大さが、この決定を許してくれた。
 そしてこの大臣も、私の醜い姿を見て、賛同こそはしなかったが、その気持ちも分からなくはない、と認知まではしてもらえた。同情で押し崩すなんて建設的なやり方ではなかったが、全く無理解のまま、大臣に決定を受け入れさせるの心許なかったのだ。
「はい。ワーフォールは大変良い国です。必ずや、国民のために尽くしてくださるでしょう」
 そう返事をして、足早にその場を離れる。この後は、ワーフォールの皇帝による演説がある。もう皇女でもない、人間でもない私には、さして関わりのないこと。そう言い切れるだけに彼の性格と手腕に自信はあった。
 だから私は、愛する人のために、国家を捨てる。

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#04:we_would_be_loving_each_other.

 きっとレインのことだから、色々なことに理由をつけて、自分のことを責めているだろう。私も獣になってしまったことや、レインの処遇について等でだ。それで、本当は辛い決断だったのだ、と思っているに違いない、そんなことを考えながら、人ごみの中を進む。装いは変えてあるから、私が姫だとはばれないだろう。背格好だって、前とは違うのだから。
 馬車を見つける。私が指定しておいた馬車だ。周囲に中を覗きこむような輩はいないか、と目を左右してから、こっそりとその中に入る。
 目を丸くしたレインが、こちらを見ている。
「出発してください」私は待機していたワーフォールの兵士に命じてから、全身を覆い隠していたコートを脱いで、どう反応していいのか決めかねているらしい、硬直したままのレインに抱きついた。
「これでまた、一緒に暮らせるね」
 あの館の一件からおよそ一年間。細切れだったレインとの縁が、また戻るのだ、そう思えば、多くの後ろめたさや不安などは、風前の塵に等しかった。
 レインもそんな私の思いを肯定するかのように、「ケーッ」と一鳴きした。

 訳の分からないままに、私は国境を超え、再度ワーフォールへ。じゃれつく姫は私に何も語りなさらず、私もそれを享受していた。姫の心底楽しそうな表情を見て、思考を馳せるまでもなく、これで良かったのだ、と思った。
 仰向けになった私に姫は乗っかって、何度も口付けをする。すぐ近くに兵士がいるのだから、あまりおおっぴらな事は出来ないのだが、姫はそれをまるで気にせず、私の身体を弄びなさる。
 姫のまるで変わってしまった体も、相変わらず美しい。滑らかな毛皮に、しなやかな体躯。凛としていながらも、あどけなさの残るお顔。ふわふわな尻尾。僅かな物音を聞き漏らさない、狩猟獣らしい、前に向いた耳だって、なんと愛らしい事だろうか。私がそこをそっと撫でれば、僅かに嬌声を上げた。
 仕返しだ、と姫は私の身体をひっくり返し、尻尾の付け根をなぞられる。身体がゾクゾクして、私の口からも鳴き声が漏れた。姫はふふ、と笑って、もう一なぞり。通い婚のように、度重ねた逢瀬のうちに見つけた、弱点の一つだった。

 時間は瞬く間に過ぎて、日が傾いた頃にようやく馬車は止まった。
 促されるままに降りてみると、そこは森の中だった。小川がすぐ近くに流れていて、古そうだったが、新しい木材で補修されてある小屋が立っている。続いて降りた姫の顔を覗いてみると、小屋を一瞥してから私を覗き返される。
「では、一週間後にまた、伺います」兵士は馬車に乗って、来た道を帰っていく。真っ赤に染まった世界に、「ありがとうございます」と恭しく礼をする姫の姿が、妙に牧歌的に見えて、いつになく安らぎを覚えた。
「これからずっと、二人でここに暮らすの。初めは大変かもしれないけど、きっと楽しいに違いないよね?」
 ――ええ、きっとそうに違いないでしょう。
 私たちは小屋に入るとすぐに、小さな小屋にしては随分と大きいベッドへと直行する。はしたないが、旅の間戯れ続けていたせいで身体が疼いて仕方なく、お互い確かめ合う前に向かっていた。姫は自分のことを蔑ろにして、「レインはいやらしいのね」と言いなさる。けれど、言葉を持たない私は、泣き寝入りするように鳴くことしか出来かった、
 仰向けになった私に、姫は抱かれるようにしてのしかかりなさる。お互い同じ向きであるが、体格差のせいで姫の耳が眼下に見える。体温と、温かな吐息が私の首筋に掛かり、毛皮越しにも姫の温もりを感じる。そして、私の、既に屹立した男性的な部分に、姫の尻尾が当たっていた。
「ふふ、もうこんなに元気なのね」
 馬車の中では敢えて触れていなかった、私のそれを尻尾で撫ぜなさる。私は爪を立てないように内側に握り締められた鈎爪を、姫の背中に当てるようにして、姫の身体をより、これ以上近づくことなど出来ないのに、より近づけるように抱きしめた。
「ねえレイン、私とエッチ出来なかった一年の間、どうしてたの?」目下、私を見上げながらの、意地の悪い質問に、私の全身はチクチクした。私は姫の眼差しから目を背けることしか出来ない。それが肯定だと分かっていても、その視線に心を溶かされるよりは、マシだった。
 姫はその答えを知っていたかのように、尻尾を器用に使って、私の陰茎を包み込むように巻きつけられる。私はここ最近控えていたのもあって、それだけの刺激で、イってしまいそうだった。
「ねぇ、どうしてたの?」
 再度問いかける姫は、ゆっくりとその尻尾を、上下に動かしになる。既に身体は好き勝手に震えて、鳴き声だって歯止めを掛ける間もなく発していたのだけれど、このままでは終われないと、私は嘴から舌を出して、不意を付くように耳の内側を舐める。
「きゃぁっ!」
 姫が咄嗟に身を引き締めたせいで、私に巻きついた尻尾もぐっ、と絞られる。衝動に堪えながらも、私は舌先を、じっとりとした緩慢な動作で耳の穴で出し入れした。それが姫の身体をより熱くさせたようで、行為も、言葉攻めも、更に激しくなる。
「んっ!……もしか、てっ、私のっ!……とを、考えながら、ひゃ、一人で、エッ……チしてたっ!ふぁ、のっ?」
 否定できない言葉は、私の歪んでしまった貞操を責めていた。それは自分も不思議な程に、くすぐったくて、口から漏れる色声に混じる。
 私はそれを誤魔化したいのかもしれない、自分の尻尾を姫と自身の隙間に滑り込ませ、姫の恥部に掠らせるように動かして、よがり声を誘う。のだけれど、姫の湿った声は熱く私の身体に浸透して、より自分が淫猥になっていくのが分かる。
 一方で、姫は私の首筋を愛撫される。獣の、毛に覆われ、鈍感な皮膚なれど、姫にいとおしがられているのだという認識が、それを甘美なものへと変える。私の手には鋭利な爪があるから、ただ姫を抱きしめてやることしか出来ないのが、口惜しい。
「レッ!ンあんっ!いやら、っ……しいの、ねっ!んやっ……!」
 途切れ途切れにも続く姫の言葉が、私を内側から、まるで犯しているかのように駆り立てる。一年前、魔物に言い放たれた『淫らな獣』という言葉が私の心に過ぎるが、いつの間にかそれは、甘い蜜のような記憶へと成り代わっていて、未だに滴っている。
「ひぁ、ん……おんな、ぁあ、のこ……うぅ……な、のに、ぃ、おち……ちん、んんっ!でぇ……エッチなっ、こ、とを――」
 ――そう、確かに私は、『淫らな獣』だった。
 ――森の中で暮らしていた時も、姫との逢瀬の後に、一人火照った身体を、慰めていた。姫の名を、うわ言のように繰り返しながら、ああ、その――、自分の、ええと、……を、ひたすら――背徳感に苛まれながらも、止められなくて――
 ――姫のことはずっと好きであったから、身体のせいじゃないのも知っていた。だから、女性が女性を好きになる、という違和感もあったし、また身体が男性になった今では、女性がその、処理をする、ということだって、変なことだとは思っていたけれど、止められなかったし、なにより――
 気持ちよかった。
「ふぁ、やんっ!レイ……ひゃ、ああ、レ、ンン――」
 お互いに凌ぎ合うたびに、行為が激化していく。
 高いところから落ちるように、地面に近づけば近づくほどに、加速している。
 抵抗は加速する度に高まって、熱を帯びて全身を、欲望を刺激する。
 そして一瞬のうち、剣に閃く輝きよりも、空を引き裂く弓矢のよりも速く――
 無限大によって分割された、その無に等しい時間は、
 そこが終着点であったと知っていたかのように、
 果てしなく、引き伸ばされる――!
「んんっ!……ふぁ、はんっ!……イっちゃ、ああ、はぁっ!――」
 ――姫、姫!私も、いやらしい私めも、イってしまいそうです!ああ、姫と!一緒にっ!――

 ……
 混濁した思考。

 潮が引いていくように、ゆっくりと、そこにあるものが明らかになっていく。
 
 レイン。

 レインの身体が温かい。
 薄っすらと目を開けると、舌をはみだして、上を向いている嘴。
 ……
 レイン。

 私の尻尾が濡れている。
 レインのお腹も。
 真っ赤な光が、窓から差し込んでいる。
 レインはまだ、元気そう。
 あの日と同じだなぁ、と思いつつ、私は鼻っ面を、身体の中へと潜り込ませる。
 汗と、それ以上に獣の匂い。
 きっとレインはこの匂いが嫌いだろうけど、それならばその分、私が愛せば良い。
 この身体だって、私が。
 私は自分を好きになれないけど、レインは私のことを、愛してくれるよね?
 ……そうだ。良いこと、思いついちゃった。

 ……
「ねぇレイン?」
「クゥ?」
 ああ、レインは、可愛いなぁ……。

 私は首につけていた、抗呪のネックレスを取り払った。
 さようなら、アトリーシャ皇女。

「続き、しよっか?」

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#05:Loving_Each_Other

 昨晩から降り続く雪。
 獣の目には、流れゆくそれが吹雪いているように見える。
 まだ辛うじて生きているウサギは、腹からぽたぽたと赤い雫を落とし、雪面に、新たに出来た足跡をなぞっている。それを咥える獣は、短い呼吸を何度も繰り返して、口から漏れる白い息を、自ら引き裂いて過ぎ行く。滑らかな動きで、尻尾をなびかせていた。
 獣が立ち止まった時には、既にウサギの息の根は絶えていて、赤い瞳が宙を眺めたまま。
 狩りの一部始終を見ていた、もう一頭の獣は、その捕らえた獲物を見て、一鳴きする。
 ――お上手です。
 それに呼応するように、狐も鳴く。
 ――ありがとう。
 言葉にないやり取りは、緩やかに舞う雪を少しだけ溶かすようにして、雪の中に消えた。

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作成日:2008/03/22;更新日:2008/08/06
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遠すぎて当たらない/Too_Far_and_No_Harm
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